畔に佇む大工の神様は意外な御仁だった – 福島県

大工(だいく)とは、主として木造建造物の建築・修理を行う職人のこと。古くは建築技術者の職階を示し、木工に限らず各職人を統率する長、または工事全体の長となる人物をさしていた・・。(Wikipedia より)

なるほど「大工」さんの「大」には 元々棟梁、現代的な言い方だと現場指揮者や責任者・監督官的な意味合いが有ったのですね。 因みに「古代造寺司(奈良時代の官職)においては、建築に限らず工匠の長を「大工」、副を「少工」と呼んでいた。」そうです。

 

様々な加工機器、新規技術、果てはコンピューターまでも動員して、合理的に行われるようになった現代の建築技術ですが、”大工さん” と聞くとやはり今でも ”職人さん” のイメージが強いように思えますね。

興味深いことに大工になって建築業務に携わること自体には ”資格” も “学歴” も必要無いそうです。 そのため ”セルフビルド” と呼ばれる ”自分の家を自分自身で建ててしまう” ことも可能で、器用な人の中には実行される方も時折見かけられます。(*法や自治体による制限や手続きの難しさが伴います)

只、実際に大工として身を立てていこうとするならば、より高度な作業や業務に携わるのが道理でもあるため、作業主任者 や 建築大工技能士、建築士 などの資格を取得することが必須となり、そのため高校や高等専門学校以上の履修も必要となってくるのだとか・・。

単に手先だけの器用さだけではなく、専門的な知識や総合的な知見が必要だということですね・・。

 

飛鳥・奈良時代の建築の官職、現在で言うところの国土交通省(2001年までは建設省)のはじめのようなものですが、木工寮(もくりょう)という官庁があり、建築木材の調達や管理、職人の監督・采配などを担っていたそうで、上記の大工もその官職のひとつであったわけですね。

半島や大陸から伝来した建築技術も “板についた” 頃、幾度の遷都も重なり各寺院や殿堂の建築ラッシュ、各方面ごとに造京司、造寺司、造宮省など分割して担当するなど建築に関する業務は多忙を極めたそうです。(この時代に既に資源の浪費や環境破壊が始まっていたという説もあります)

今でも「土木」という言葉がありますが、当時、土に関わる職掌を「左官」木に関わる職掌を「右官」と呼んでいたそうです。 左官はその後、壁塗りなどの職人さんの職名として残り、右官は大工と名称を変え(大工、小工、長上工、番匠工)などの階級が成立していったとされています。

時代が進むにつれ、正に建物の基本を成す「棟梁(棟(むね)と梁(はり))」という言葉が生まれ、大工の筆頭者を表す呼び名として用いられると同時に、一族の長を表す言葉ともなりました。

 

こうして現代に続く建築と職工の基盤が この飛鳥・奈良時代にその端緒を開いていったわけですが・・、これらのことに大きく関わるとされる一人の人物がいます。

歴史の偉人、昭和の時代に一万円・五千円の紙幣デザインともなった “聖徳太子” がそのお方。

聖徳太子 / 厩戸王 (皇子) 冠位十二階や十七条憲法の制定など学校で習ったことを憶えておいでの方も多いでしょう。 幼くして聡明で仏教に明るく、この時代 先進であった隋・大陸文化を参考に新しい施策を次々と実現されていった貴人ですね。

用明天皇の皇子でありながら、当時の不安定かつ転変する政情ゆえ皇位に就くことはありませんでしたが、常に要職を担い政治と国家の安定化を標榜していました。

 

この聖徳太子が行った施策のひとつが、上で述べた木工寮など建築・造営に関わる行政機関の設立と運営であったと言われています。

官省の設置のみにとどまらず、職人の登用・育成にも力を入れ、また「差し金」と呼ばれる(現在でも使われる)大工道具を、大陸の技術から取り入れ日本の職人に広めたとの伝承が残っています。

そして 摂津国難波の四天王寺、斑鳩宮の造営と法隆寺など多くの大廈高楼の建立に携わり、これを成し遂げたことから、その後の日本の建築界の祖と位置づけられ、現在に至るまで「大工の神さま」として崇敬を集めているのだそうです。

聖徳太子といえば、智慧の政治家、常人離れした能力の持ち主といったイメージがありますが、意外な崇められ方もあったのですね。

 

「国見町観月台公園」 画像:Wikipedia YOSHI YOSHI 様

 

福島県の北端、国見町の「国見町観月台公園」は、郊外ののどかな空気に囲まれた市民憩いの場です。 閑静な雰囲気の池と 春には百本といわれるソメイヨシノが咲き誇り、訪れる人に安らぎと歓びをもたらします。 園内には当地に縁ありと伝わる源義経の像も立っています。

この池の畔に静かに佇む小さな社が『聖徳太子神社』
古くは近隣の小山の上に立っていたものが、一度大雨に流されてしまい現在の場所に行き着いたとのこと。 おそらく江戸期の出来事で、再建立、幾度かの改修を経て昭和45年に現在の姿となったそうです。

「大工の神さま」そして「智慧の為政者」として尊崇を受ける聖徳太子ですが、祭神として祀られる神社はそれほど多くはありません。

この福島県や栃木県をはじめ北関東から東北の地に集中しているのも不思議な現象ですが、もしかすると建築や木工工芸に関わる職掌集団が、その昔多く入植したのかもしれませんね。

 

1400年前に当時最新の行政システムを取り入れ、今に続く建築業界の基礎を築き上げた聖徳太子、テクノロジーが横溢し複雑化の進んだ現代社会を時の彼方からどう見つめているのでしょうか・・。

 

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