有為転変(ういてんぺん) 世の全ての事柄は決してひとつの状態に留まることなく、様々な要因や状況に応じて移り変わってゆくもの・・を表す言葉ですね。
人を取り巻く文化や生活が最も大きく変化したのは この100〜200年程の間と言われますが、18世紀の半ばから19世紀初頭にかけて世界を洗い、生産技術の飛躍的発展を招いた
産業革命を基点としても、文明は常にその歩を緩めず・・、
19世紀末から20世紀に大規模なエネルギー開発と電気力の活用を広範に取り込んだ時期を第2次産業革命、そして20世紀も末 1980年代より勃興し現在に続くデジタル技術を基軸とした情報化社会の広がりを第3次産業革命と呼びながら進み続け、今は数十年以内に訪れるとされる(ある意味 未知の要素を含んだ)第4次産業革命を待っている状態なのだそうです。
技術の変革と進歩を限られた文章で語ることはとても叶いませんが、その中でほんの小さなひとつ、カメラについて思いを巡らせてみました。
私がまだ子供の頃、小学校に上がったくらいの時だったでしょうか、父親が一台のカメラを持っていました。 確かアサヒペンタックスだったと思います。
今調べてみると販売時の価格が5万円程(レンズ別) おそらく当時の一般家庭が何ヶ月も何年も頑張ってなんとか買える高級品だったのでしょうか、父親が誇らしげにそして大切に使っていたのを憶えています。 正に一家における資産のひとつとも言えた時代だったのでしょう。
その後、時代が進み様々な新型機が発表されるとともに小型化も成され、露出調整やピント合わせを簡略化した簡便な機種が登場しカメラのユーザー層を拡大、老若男女問わずいつでも手軽に使える道具と変わっていきました。
そして現在、カメラは既にその姿を捨て去り携帯電話やスマホの一機能と成り至っています。 勿論、単体のカメラやレンズを使いこなし素敵な光画を追う方は今も大勢いらっしゃいますが、それは既に特別な趣味の領域であり、生活の中に根付いた撮影・記録という行為においてのカメラは過去のものとなってしまったのです。
かつては時代の花形商品でありフィルムや現像サービス、そして記念撮影などで潤っていた “写真屋” さんもデジタル化の洗礼に縮小を余儀なくされた挙げ句、私が住んでいるような地方都市では軒並みその姿を消してしまいました。
今ではすっかり変貌したカメラ・写真を取り巻く事情ですが、カメラに限らず様々な商品やサービス、社会の様相や思想に至るまで あらゆる文物は時の中に留まり続けることは無いのでしょう・・ 記憶や伝承の中を除いて・・
本日の記事の後半は、今度はこの逆方向の時代、つまりカメラや写真撮影がまだ一般のものではなく、限られた極一部の職人による技術であった頃のお話です。
そもそも上で挙げさせて頂いた ペンタックスSP は一眼レフカメラの普及に貢献した機種とされていますが(昭和40年代)、それ以前はレンジファインダーという形式のカメラ、更にそれ以前は二眼レフというレンズを縦にふたつ構えたカメラが主流でした。
そして更にそれ以前、大戦前後の頃までに至ってはカメラは一般人のものではなかったようで、 とある写真業の人が当時 ドイツ製のライカというカメラを一台買うために、手持ちの財産から不動産の大半を売り払って購入したという逸話が残っているほどです。
さて、更に遡り カメラ / 写真機そのものが まだ珍しかった明治時代、写真という新しい技術に魅了された一人の青年がいました。名を 江南信國(えなみのぶくに)幕末に生まれ 明治・大正期を通してその名を日本の写真史に刻んだ写真技術者でありました。
写真技術者と表現したのは 当時まだ写真撮影という職業が黎明期であり、後に言われる “写真家” の概念が確立していなかったと思われるからです。
江南は当時 アメリカ留学をして日本にコロタイプ製版(写真製版)の技術を持ち込んだ “小川一真” の下へ師事しました。最先端技術でもあった製版とこれにまつわる技能を旺盛に習得していった江南は やがて小川の片腕となり研鑽を積んでゆきます。
33歳の時、独立の機を得た江南は東京を出て神奈川県横浜の地に移り、弁天通りに初めてのスタジオを構えますが、世間的にはまだ駆け出しと見做されていたであろう彼が 十全な資金を用意出来ていたとは考え難く、師匠小川の援助があったのではという見方もあります。
新天地で仕事を立ち上げた江南は、同地で既に開業 腕を振るっていた先達の写真師 “玉村康三郎” や “日下部金兵衛” とも親交を結び、活動の輪を広げながら自らの技術と感性に磨きをかけて仕事を安定に導いていったのでした。
“ヨーロッパの百年は日本の十年” と言われたほど激動と混乱 そして新進の息吹にまみれた明治時代、更に外国人の訪問・逗留も多い横浜の風は独特の風土と繁栄をもたらし、江南もこの風の中で写真師として順調に業務をこなしてゆきましたが、彼には他の写真師とは一風異なる特徴がありました。
この時代の “写真” を取り巻く環境は まだまだ一部の人間のものと上で書きましたが、それは “写真の表現” としても ”写真サービスの多様性” としても未発達であったことを示します。
当時、人物撮影の主な目的は記念や顕彰のための記録であり、その依頼主の多くは社会的地位のある人や裕福な人々でした。 現在も時折見られる胸像のような用途だったと言えるでしょう。 また、建物や風景に関してもそこに何らかの記念的意図をもった撮影を旨としており誰もが身近に親しむ存在ではなかったのです。
しかし、江南の活動は単なる商業ポートレイト撮影に留まりませんでした。
・ 一般市井の人々や風物、スナップ写真を数多く撮り残した
・ 白黒写真に手彩色でカラー化して表現性を拡大
・ 立体視を目的としたステレオ写真の制作
・ 既存の写真の複製や拡大サービス
・ 映写機用の小型スライド、投影機用の大型フィルムの制作
・ 観光的視点での風景撮影とそれを元にしたアルバムブックの出版
・ 新聞社や出版社、広告向けの写真画像の供出
・ 海外の写真スタジオとの連携
等々、今日 当たり前のように行われている写真サービスの大半を、この時代に確立・手掛けていたのでした。 海外との交流も深かった江南は自らの商標を “T・江南” として旺盛な活動を続け国内各地にも撮影の足を伸ばしていたと言われます。
(T の文字は “信國” の信の文字を “たより” もしくは ”とし” と読んだイニシャルではないかと言われています)
そのため、江南信國 は当時として非常に多作の写真家だったと言われています。
内外で高い評価を受けた彼の写真は多作の甲斐もあって多く残り、明治から大正にかけての人々の暮らしや風物を現在でも鮮明に知ることが出来るのです。
滄海桑田(そうかいそうでん) 昔、青い海原だった場所が今は桑の畑になっているたとえから、時隔てて世の中の変化は想像以上に大きいことを表しています。
横浜の地も、写真を取り巻く状況も100年前とは大きな変貌を遂げました。
今日、当時の面影を残すものはごく僅か、江南信國の名を知る者も限られています。
しかし、黎明の時代の中で 自らの技術と自由闊達な探究心を駆使し、今日に続く写真技術とサービスの端緒を切り開き その礎を成した彼の業績と作品群、そして熱意の記憶が失われることは無いのです。
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