「さぁさぁ さてもお立ち会い 御用とお急ぎでなかりしば ごゆるりと聞かれたし・・」
「一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚・・これこのとおり」
着物袴にタスキを綾掛け 腰に据えたるニ刀の差料、道行く人々を相手に語られる意気衝天の語り口上・・ 皆様ご存知「ガマの油」売りの呼び込みですね。
現代ではごく一部を除いて普段見られる芸能ではなく、それでも知識としてあるのはテレビの時代劇などで見知った記憶でしょうか。
「ガマの油」「四六のガマ」とユニークな言葉が並びますが、ここで言うガマとは “ヒキガエル” のこと(厳密にはアズマヒキガエル)
蛙(カエル) の種の中では中規模の体躯を持ちますが その体表の模様から、小型で緑一色のアマガエルなどに比べ可愛らしさという点では一歩を譲ります。
・・というより「鏡で囲いし箱の中で己の姿に汗をなし・・」の文句のごとく、あまり気持ちの良いものではありませんかね・・
「四六のガマ」とは前足の指が4本 後足の指が6本と、口上において筑波山にのみ棲息する特別種のように語られますが、ヒキガエルは元々 前後ともに指は5本で、前足の第一指が退化しているために4本、後足は隆起物のために6本に見えることからそう呼ばれ、筑波山固有の現象ではないそうです。
筑波山の名が挙げられるように茨城県筑波山に縁深く、辻口上が見られなくなった現代でも地元縁故の伝承芸能として引き継がれ、名産品として名を馳せる「ガマの油」ですが、その初出にはあくまで俗承ながらも、慶長年間におこった大阪の役(大阪冬の陣・夏の陣)における逸話があるようです。
天正も末期、徳川家康が まだ旧来であった江戸の古城に入り 新たな城下町を整えようとした折、江戸の鬼門(北東方向)にあたる筑波山を鎮護の座と定めました。
当山にあった知足院中禅寺(神仏分離を経て現在の筑波山神社)の別当(寺院を管理運営する重職) “光誉” は才識豊かで薬学にも通じた僧侶でもありましたが、筑波を神領として安堵した徳川家との間に縁を保ち、後の大阪の役にも徳川方として従軍したそうです。 ある意味軍医のような役割りだったのかもしれません。
二度にわたって繰り広げられた凄惨な戦、数百数千と横たわり呻く傷兵に対し光誉は持参の “軟膏” を用いて次々と手当を施していったのだとか。
その効果は驚くべきもので、塗られた傷口はあれよと言う間に塞がれて 痛みもじきに消え去ってしまう。
法術のごとき軟膏の効果とそれを使う光誉の噂は瞬く間に広まることになるのですが、この光誉上人、もひとつ特徴を挙げるとするならば その面構えが “ガマ蛙” そっくりであったと言われ、そこから「ガマ上人の油薬」〜「ガマの油」となったのだ・・と言うお話が伝わっています。
さて、この光誉上人なる人物、確かに知足院別当として資料にもその名を見ることが出来るのですが、当時、筑波の聖地はその別当家同士の覇権で揺れており、その仲裁に入った家康との関連性も考えられなくもないのですが、大阪の役にまで従軍していたかは甚だ不明なところです。
そして「ガマの油」、後の口上では “その身から油汗を〜” と謳われますが、汗腺の無いカエルが汗をかくはずもなく・・
ところが ヒキガエルの体液に何の効果も無いのかというと然にあらず、隆起した両眼の後方、耳から肩にかけた辺りに耳腺という分泌孔が有り、ここから抽出される体液には鎮痛や麻酔の作用が認められ、”蟾酥(せんそ)” と呼ばれて古くから漢方の一意とされているのだそうです。
この耳腺から出される液体は、カエルの種によっては非常に強烈なアルカロイド系毒素であることもあり、良くも悪くも効能の効く生き物として古の人々は経験的に知っていたのでしょう・・。
しかし、如何に効果のある液体とはいえ一匹のカエルから採れる体液など知れたもの、少量の軟膏ならばまだしも、大量の負傷者を治療するだけの量が用意出来たのかと考えると あまり現実的とは思えません。
実際のところ、光誉、または 光誉に代わる人物が軟膏薬を用いていたとして考えられるのは、古くから民間治療薬として知られていた “馬油(バーユ)” ではないかとも言われています。
また 一説には水辺に生える「蒲(カマ・ガマ)」の花粉である “蒲黄(ほおう)” を用いた軟膏だったのではないかという見方もあります。 蒲黄に消炎効果があるのは出雲神話「因幡のしろうさぎ」でもご存知のとおり、こちらの説ならば名称的にもしっくりきますかね。
史実、事の成り行きはともかく今から400年程前を起点として「ガマの油」は薬効高い外傷治療薬として世に知れ出回っていたと思われます。
大阪の役が収束し 元和偃武(げんなえんぶ)が唱えられ太平の世が広まると、人々の暮らしにも安定とともに様々な文化や習俗が芽生え始めます。
芸能を楽しむゆとりと文化の発達、それに何かしら生活の役に立つ商品の宣伝販売が融合したもの、それが大道芸と露天商いです。 現代では然程メジャーな商法ではありませんが、店頭実演販売やテレビショッピングがそれにあたりますかね。
未だ怪我や病気に対しては古から伝わる民間療法が主体だった江戸時代、人目を引くパフォーマンスと語り口上で日常身近な外傷治療薬を売り上げていた「ガマの油売り」は、その解りやすい典型だったのかもしれません。
ここで語られる伝承はやはり茨城出身のひとりの若者によって綴られています。
名は “永井兵助” 筑波郡新治村永井の出身、百姓の子として生を受けるも生来の遊び癖が高じて土に生きることを捨て江戸に出たそうです。
されど町に出たところで道楽者、真っ当に働くこともなくたちまち落ちぶれ食い詰めてしまいます。
己の性根の不甲斐なさを嘆いた兵助は、せめて故郷の筑波山の頂から世を見晴らしてから死んでしまおうと決意、旅路を経て女体山(筑波山の一峰)へ登ったのだとか・・
しかし日も暮れかかる中、山頂を間近に控えた山道で兵助を待っていたのは一匹の巨大なヒキガエルでした。
死を決意して登ってきたにも関わらず、身の丈をも超えるカエルの大きさに思わず ”南無三” と唱えて恐れ手を合わせる兵助・・ しかし、それは路傍に突き出た巨大な奇岩でした・・
性も根も尽き果ててその場に倒れ深い眠りにつく兵助、するとその夢の中に大きなヒキガエルが現れ、今までの暮らしを改めて真摯に生きるよう兵助に諭したのだそうです。
夢から覚めた兵助は筑波山で七日に渡って瞑想を練った挙げ句、当地に伝わる特効薬「ガマの油」を生業に全国へ広めることを思い立ったのだとか・・
江戸へ戻り香具師の手習いを受け、自ら考案した口上をもって挑んだ「ガマの油売り」は盛況を呼び、いつしか兵助は名の知れた香具師となって故郷に錦を飾ったのだそうです・・。
このお話も多分に創作が含まれていることは想像に難くないのですが、光誉上人よろしく永井兵助も おそらく史実の人ではないかと思われ、ネット上を探してみると もう少しリアルな兵助の人物像も見ることが出来ます。
何れにせよ400年の時を数えながら「ガマの油」は現在でも製造販売され筑波を代表する土産物ともなっており、そして兵助が考案・確立した「ガマの油売り」の口上・実演も現代に引く継がれ「つくば市認定地域無形民俗文化財」として顕彰されています。
人々が生み出した文物や習俗は 時に触れ 時を超えながら現代にその余韻を伝えているのです。