「歌舞伎」 言うまでもなく日本を代表する格式高い伝統芸能のひとつですが、一方、女性の演者を含めない男子専有の世界という慣習があることもご承知のとおりです。
しかし、現代では芸術として愛される歌舞伎も、安土桃山時代の終わり頃 民衆に身近な演芸として始められたものであり、その創始が “阿国 / お国” という名の出雲出身の女性であったことも よく知られるところですね。
通称 “出雲阿国” は その名のごとく出雲の出身であると同時に、各地で出雲大社の勧請を行っていたようで、当初 “ややこ踊” と称された演舞もその一環であったようです。
全国に足を運び そのご利益を宣伝して回った神宮(伊勢神宮)の “御師” のような役割だったのでしょうかね・・
目新しく官能的でもあった “ややこ踊” は、やがて当時の流行とでも言いますか(派手で異端な粋)「傾く・かぶく」に通じ「かぶき踊」と呼ばれるようになり、今日に続く芸能の端緒となったようです。
このように 女性によって始められた「かぶき踊」は京の都で好評を博しただけでなく、各界にその模倣を生み出しながら広まってゆきましたが、その中心は主に茶屋(風俗的な要素を持つ接待業)であったため、時代が進むにつれ風紀の乱れを指摘されることとなってしまい 度々 禁止の触れが出される事態ともなりました。
「歌舞伎」の文字は江戸時代「歌舞妓」と記されていたようで、接待をする若い女性を表す「妓」の文字の片鱗が残るのは その当時の名残りなのでしょう。
結果的に女性演者による舞を排斥する形で「歌舞妓」は純粋な演芸として昇華・確立されてゆき益々の隆盛を見ますが、それは全国各地における地方一座の勃興をも招きました。
屋号さえ持つに至った中央の歌舞伎座の見よう見まねで始まった地方一座も、時代を経るごとに洗練されてゆき やがて独自の演技と人気を誇るまでになったそうです。
山形県下関市 玄界灘を望む豊浦町 川棚(かわたな)は、青龍神話にも届く数百数千の時の歴史を持つ温泉地ですが、この地に生まれた歌舞伎一座『若嶋座』もそうした地方一座のひとつでした。
寛延年間の旗揚げとされる『若嶋座』は その舞台の力量ゆえに、庶民から高位の人々にまで愛され当時の藩主 毛利匡敬(もうりまさたか)の贔屓も厚く、天明4年(1784年)には御前芝居にも招かれています。
『若嶋座』の特徴的なところは、川棚を本拠としながらも 公演を各地に渡って巡業していたことで、その名声はやがて広く知れ渡り 昭和5年(1930年)にはハワイ公演も成功させるまでになりました。
時代の運命か、太平洋戦争のために殆どの座員を兵役に取られてしまい、昭和15年ついに200年に渡る歴史に幕を下ろすことになりましたが、その華やかさと人情に満ちた演芸の心は今も川棚の地に受け継がれており、時に寄せて歌舞伎関連のイベントが開かれているようです。
さて、太平洋戦争も終わり、日本がようやく復興への歩を進めはじめていた頃、失われた若嶋座と入れ替わるように一人の音楽家が川棚を訪れました。
名は『アルフレッド・コルトー』、スイスに生まれフランスを拠点に世界に知られたピアニストです。
コルトーは並み居るプレイヤーの中でも かなり天才肌のピアニストで、ショパンをはじめ比較的ロマンティックな曲を得意としたその演奏は、時に万感の想いゆえにスコアを外すことさえある程の独創的な音楽家でした。
日本の情感に長く憧れを抱いていたといわれるも中々にその機会に恵まれず、昭和27年(1952年)ようやく初の、そして最後の日本公演が実現し来日を果たしたのです。
2ヶ月間に渡って各地の演奏会に臨み、山口県での披露の折に宿泊したのが川棚でした。
憧れが現実となった上にすっかり日本の情緒の虜となっていたコルトーは、中でもこの川棚の自然美を気に入り、とりわけ沖合に浮かぶ島の安らかな風情に心奪われたようです。
その心酔加減は周囲を驚かせる程で、当時の川棚村長に直接 掛け合い「天国のようなあの島でこっそり死にたい。ぜひ私に売ってほしい」とまで訴えたのだとか。
如何に著名な音楽家とはいえ西洋式のジョークであろうと、最初は笑って流していた人々でしたが、コルトーの情熱は衰えることを知らず その真剣な熱意に打たれた村長は「そこまで あの島を気に入り生涯に渡って住みたいと仰るなら無償でお譲りしましょう」と返したそうです。
この返答にコルトーは大感激、加えて島名を特別に「孤留島(コルトー)」と名付けようという村側の提案に打ち震え、その厚意と友情を胸に帰国した後も「日本に僕の名を冠した島がある」「必ずもう一度日本に渡り 僕の夢の島に帰りたい」と話していたと伝わります。
しかし、コルトーは既に高齢で病を得ていたこともあり、その想い・願いも虚しく再来日を果たせず1962年6月にこの世を去りました。
「vrai pays」(ブレ・ペイズ) フランス語で “真なる国” で 日本、そして川棚を愛していた『アルフレッド・コルトー』。 故国を持ちながらも遠き東洋に安らぎの地を見いだした彼の想いは、今も彼の島に静かに息づいているのかもしれません。
歌舞伎に、そして音楽家に愛された川棚にもう一人 関わる人物、それは昨年の秋にイナバナ.コムでも記事にさせて頂いた『種田山頭火』
純粋で放埒で、自由律という “形を持たぬ形の” 俳句を片手に、旅と酒と苦悩に生きた天性の俳人・・
居住地であった九州を出て、行乞という物乞い同然の旅を続けながら辿り着いた川棚の地、この景観をいたく気に入った山頭火は、これもまたコルトーのごとく 〜花いばら、ここの土にならうよ〜 とこの地に終生の楽土を見たのでした。
幼き日に母を失って以来、人生の苦悩に翻弄され、全てを放擲して歩く旅路で出会った 数少ない心安らぐ場所であったのでしょうか・・
〜今朝の湯壺もよかつた、しづかで、あつくて、どんどん湯が流れて溢れていた、その中へ飛び込む、手足を伸ばす、これこそ、優遊自適だつた〜 「行乞記」
歌舞伎に、音楽家に、そして俳人に心から愛された有閑の別天地 豊浦町『川棚』
何故 これ程までに この地が芸事の琴線に触れまつわるのかは不明ですが・・ ここには大きな名勝や宣伝文句が必要ない程に、人の心を受け入れ安らげる何かが有るのかもしれません。
機会がありましたら貴方ご自身の目と感性で ご体験頂ければと思います。
記事参考 : 川棚温泉 公式サイト / 川棚温泉観光協会