九州福岡県の有名な神社として挙げられる社と言えば、先ずは「太宰府天満宮」でしょうか、菅公様ゆかりの全国天満宮の総本社として揺るぎない社格と人気を誇りますね。
他に博多祇園山笠で知られる「櫛田神社」、海の平安を司る三女神「宗像大社」、日本三大八幡宮ともいわれる「筥崎宮」、宮であり霊廟でもあり勅祭社でもある「香椎宮」など数えれば数々の大社がありますが・・
古来より筑後国一宮であり延喜式神名帳において “明神大社” に列せられ、社殿の建築規模においても屈指の威容であるにもかかわらず、(少なくとも現代においては)クローズアップされる機会の少ない社があります。
久留米市のほぼ中央、東側を埋める山嶺地帯(耳納山地・みのうさんち)の一角 “高良山” に鎮座する「高良大社(こうらたいしゃ)」は 現在の社殿こそ江戸時代の建築とされるものの、高良山への鎮座が仁徳天皇の御世、創建がその御子 履中天皇 即位元年、つまり約千六百年に余る歴史を紡いできた由緒高き社なのです。
仁徳・履中天皇の祖、仲哀天皇と神功皇后が異国の脅威に侵されていた筑紫国を救うため この地に赴かれていた時に、高良山の心霊 “高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)” が顕現し、住吉三神とともに助力したという縁起が残り、後の歴代皇室の尊崇も篤い大社なのですが、何故 その後の一般的な認識が高まらないのか・・
理由には色々あるかもしれませんが、そのひとつに主祭神である “高良玉垂命” が “謎” に包まれていることが挙げられるでしょう。
その地の信仰において極めて崇敬篤い神に冠せられる “明神” であり神階は “正一位”、仲哀天皇・神功皇后に関わる逸話を持ちながら、高良山の心霊という以外 何らの神義 詳らかでなく、何故か日本の国史でもある “記紀” にも載せられていません。
ご存知のとおり “記紀(古事記・日本書紀)” は奈良時代に編纂された史書であり、朝廷勢力の神々を天津神、主に地方の信仰神を国津神として配しています。
活躍の多い神功皇后にまつわる神々も多く登場している中で、大きな役割を果たしているであろう “高良玉垂命” が登場しないのは いささか不合理な印象が拭えませんが、その理由・原因が未だに解明出来ていないのです。
そのため “高良玉垂命” が どういった神格なのか、また(神々の多くは実在の人物の転化であるため)”誰” が “高良玉垂命” となったのか、古くから歴史家や歴史ファンの研究・推測を呼ぶこととなり、そして多くの説を生むことにつながりました。
最もポピュラーとされる比定説は神功皇后の忠臣でもあった「武内宿禰(たけのうちのすくね)」であり、高良大社も明記に及んでいないものの 武内宿禰の画像を用いています。 江戸期に当地の藩命により比定されたのがその由縁となっているようです。
そして、興味深いのが九州北部の謎の明神であるはずのこの神が、数こそ多くないものの九州以外、北海道から関東・関西、山口県など八幡宮系神社の数社に祭神として配祀されているということ・・、
これは八幡神=応神天皇と少なからぬ関連を持ちながら広範囲での事跡が遺っていることを彷彿とさせます。 この辺りも「竹内宿禰説」を後押しする要素となっているようですね。
他に、熊襲征伐としてこの地に遠征した「景行天皇説」、今は平野である当地が古代水際の地であったこともあり「綿津見神・彦火々出見尊説」、高麗の神に連なる「渡来神説」などが取り沙汰されますが、現時点どれも推測の域を出ない状況です。
さらに、当地、当山において “高良玉垂命” は一度入れ替わっているという話も遺っており、ますます謎に磨きをかけています。
元々、高良山の神は「高木神=高御産巣日神」であり 後に “高良玉垂命” に代替されたのだというのです。 その証左か、高良大社 二ノ鳥居の近くに「高樹神社」がありますね。
高良山から里に下り筑後川の支流 広川のたもと「大善寺玉垂宮」は社伝において創建千九百年の謂れを持つ古社ですが、こちらの御祭神が「玉垂命(藤大臣(とうのおとど)・高良大明神とも称す)」とされています。
この「玉垂命(藤大臣)」がいつの頃か高良山に至りその神になった、また、この玉垂神は女神でもあった(地元では女神として扱われることもある / 豊比売、水沼神)など、様々な伝承と推測が入り乱れて、この久留米の地に不思議と謎の霞を広げています。
文頭でクローズアップされる機会が少ないと書きましたが、それはマスメディアや観光案内に取り上げられることが少ないだけで、歴史や神社伝承に興味深い人々にはむしろ際限なく想いの尽きない社であることが解りますね。
ご存知のように 神社の祭神は元々はその地の土着の神、大きな功績のあった人物を祀るところから始まっていることが殆どですが、数百年、千年、二千年と経つうちに様々な事情から祭神や祭地が変わることも少なくなく、近いところでは明治時代に国政の都合でかなりの異変が生じました。
現在 祀られている神様の真偽を問うのは、あまり意味のないことだとは思いますが、その地の原初に祀られ崇拝されていた神に思いを馳せることは、その地の在りし日の姿を知ることにも繋がります。
決して辿り着かない原初への憧れなのかもしれませんが、その想いは万華鏡に映る綺羅星のごとくミステリアスな輝きに満ちて いつまでも私たちの興味と探求の心を惹きつけて止まないのです。
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