現代ではあまり使われなくなった北方の地域や民を指す言葉に「蝦夷・えぞ」という言葉があります。北海道を主とする地域とそこに住まう人々を指した呼称が一般的でしたが、時代が戻り平安の世には「蝦夷・えみし」と呼ばれ 北関東・東北地域以北の民を指し、さらに遡り神武東征時代(最初の天皇が政権を形成した頃)には畿内(現在の近畿周辺地域)の先住民族に対する呼び名が元であったとも言われています。
いずれにせよ近代を除き、その語感には朝廷側から見て「敵対するもの」「異民族」といった語彙が含まれており、朝廷内の重鎮にありながら後に粛清され歴史の悪者とされてしまった`蘇我氏’の名に当てはめられたであろう事からもあまり良い意味をもっていません。
一方、「蝦夷・えみし」には「強靭・勇猛なる民族」というような語感も含まれており、当時、国家平定のための戦争を展開していた朝廷側からみても一筋縄では攻略出来ず、その力量と精神力に大きな驚異を抱いていたことが伺われます。
奈良時代、桓武天皇の頃、既に東北地方にまでその勢力を伸ばしつつあった朝廷軍は現在の岩手県の辺りで強硬な反抗勢力と対峙することになります。度重なる侵攻作戦もことごとく跳ね返され、ついに 延暦8(789)年、征夷大将軍に任じられた 紀古佐美(きのこさみ) 率いる五万の朝廷軍の前に立ちはだかったのが、当地の首長であり精神的主柱でもあった 大墓公阿弖利為(たものきみあてりい・アテルイ)と盤具公母礼(いわぐのきみもれ・モレ) の軍でした。
後に「巣伏の戦い」と呼ばれるこの戦いでは圧倒的な戦力差があるのにもかかわらずアテルイ達の巧みな陽動作戦が功を奏し、また、我が地を死守せんとする猛烈な戦意の前に朝廷軍は分断、敗走。流れる川に累々と死者を残しながら大敗を喫したのです。
勝利に歓喜する当地の民と対照的に、必勝を信じていた遠征軍の大敗に朝廷側の驚愕は想像に難くありません。
驚いた朝廷側、桓武天皇の命によって急ぎ再編成された軍の将軍にはあの大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)と坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が任命されます。前回にも増して増強された遠征軍は 延暦13(794)年から物量と知略を奮った作戦を幾度にも渡って展開し、徐々に東北の地に侵攻の度合いを深めていきました。
膨大な敵を前にしながらもアテルイ達はあきらめる事なく戦い続けましたが、しかし、圧倒的な物量差を基にした絶え間ない侵攻の前には抗う術もなく徐々に敗退を余儀なくされていったのです。戦いは7年にも及び、東北の地には戦による荒廃が着実に進み、人も自然も疲弊しきってしまいます。
延暦21(802)年、前年の戦いで決定的な打撃を受け、又、これ以上の郷土の荒廃に耐えられぬと決したアテルイ、そして モレは 坂上田村麻呂 の砦についに投降、ここに蝦夷の地の戦いが終結します。
敗軍の将、捕虜となり平安の都へ連れられたアテルイ達、最終的には同年8月河内国において処刑となりましたが、この時、懸命に彼等の助命を嘆願したのが遠征軍の将、田村麻呂であったといわれています。 敵軍の将とはいえ己が郷土を守る為、生涯を賭けて戦ったライバルであり、又、今後の東北運営のためにも彼の地で圧倒的な信望と統率力を持つ彼等を死なせてはならないと上申したものの、朝廷上層部からはこの訴えを退けられました。その能力と統率力ゆえにその翻意の時を恐れられたのでしょう。
この後、東北地方での平定は急速に進み「蝦夷・えみし」と呼ばれた人々の文化は息を潜めていきました。ヤマト王権に発した朝廷文化はやがて国の大部分に行き渡り 数々の歴史を刻みながら やがて日本の国として結実し 現在に続くのです。
現代、大阪府枚方市の公園と社領地にアテルイとモレの塚があると云われ永く比定地とされてきましたが、最近の研究で年代が違う事が指摘されています。しかし、この地を訪れ祈りを捧げる人は今も絶えず、碑前にはきれいな花が添えられているそうです。