そこに立つ「ミミチリボウジ」琉球から怖いお話(後)− 沖縄県

沖縄 がかつて “琉球” と呼ばれた王国であり独立国家であったことは誰もが知るところ、しかし その歴史や詳細まで熟知している人は研究者を含めて一部に限られます。
先祖からの教えや風習を大切にする沖縄の人々の間でも、もしかすると歴史に対する認識は時代の流れに従って薄れつつあるのかもしれません。

 

琉球は百を数える島々からなる集合国家でしたが、三山時代と呼ばれる三つの勢力が統一され第一尚氏による王政が始まって以降、(今で言う)琉球王国が成立しました。

その地理的状況から大陸と日本との間で良くも(交易)悪くも(冊封)揺れ動き翻弄されてきた歴史を持ちます。

興味深いのは この王国時代に絶対的な君主である “王” とは別に “聞得大君(きこえおおぎみ)” という治者をも併せて定めていたことでしょうか。 聞得大君は王室の女性によって任命され、「琉球神道」を統べる最高位のノロ(巫女)となり王室を守護する「おなり神」として生涯を全うする最重要職のひとつでした。

“力” の王権による統治と “宗教” の神性による補佐をもって 国家の統制を図っていたわけですが、「仏教」が流入し始めたのもこの頃であったと伝わります。

本来「琉球神道」によって国をまとめ上げている琉球にとって、他文化からの異教流入は避けたいところですが、これを許し保護したのは やはり大陸や日本との関係に配慮したからと言えましょう。

今回のお話に登場する「黒金座主」も こういった流れの中で琉球に移り住み住持した僧であったのでしょうか・・

 

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民を諭し導くはずの僧侶が、次々と女性を誑かしこれを殺めるなど もってのほか、北谷(ちゃたん)王子の薙ぎ払った治金丸の前に露と消えます。

全ての悪事は終わりを告げ 事件は落着したかに見えました。

しかし、黒金の怨念はどす黒くも執拗であったのか、この世に遺した恨みは潰えていなかったようです・・・。

 

悪僧を滅ぼし天下より讃えられ 揚々と過ごしていた北谷王子でしたが、この頃 生まれた初めての嗣子(男の世継ぎ)が 生後間もなく亡くなってしまったのです。

それどころか、その後も男の子が生まれる度にすぐに夭折してしまう事態が続き、北谷王子夫妻はもとより大村御殿の一族はほとほと困り果ててしまいました。
このままでは家を継ぐ者が無くなってしまいます。

 

この事は やがて世間に知れるところとなり、いつしか人々は「討ち取られた黒金座主の怨念がこの世に残り、大村御殿の世継ぎの命を次々と奪っているのだ・・」と噂するようになったのだそうです。

そして、一計を案じた大村御殿では それからというもの、男の子が生まれた時は必ず戸外に向かって大声でこう謳うようになったのだそうです。

ウフーイナグの 生まれたんどぉ
ウフーイナグの 生まれたんどぉ

(大きな女の子が 生まれたよぉ)

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さてさて、何とも苦渋な要素の多いお話でしたが如何でしたでしょうか・・

前編でお伝えした「大村御殿の門なかい 耳切坊主が立っちょんど・・」の子守唄はこの一連の顛末をモチーフとして、いつしか作られ歌われはじめたものだったおですね。

顛末上、黒金座主は耳を切られた側であって、言うなれば「耳切られ坊主」なはずですが、〜その恨みから泣く子の耳を切り落としにやってくる〜と歌に転化させたところが、いかにも秀逸な怪談仕立てと言ったところでしょうかね。

 

ところで 黒金座主、いかに耳を落とされ突き殺されたと言っても、そもそもは自分の悪事が原因、自業自得というものです。

それを恨みに思い 大村・北谷一族に祟りをなすなど逆恨みもいいところ、言語道断というものだと義憤にかられるところですが・・

どうも これには表面だけでは捉えられない裏の事情があったのではと言われています。

 

当然、遥か昔の出来事で明確な資料も残っておらず、確定的な事実は全て時の彼方なのですが・・、 黒金座主 のモデルは 当時、若狭は「波上宮」の護国寺の住職を務め、後に護道院という小寺に隠棲していた「盛海(じょうかい)和尚」ではないかと言われています。

一説に盛海和尚は当地における真言宗寺派にあって発言力を持っていたとされています。

そして 当時、王国内においては薩摩藩からの増税により財税が逼迫しており、そのために緊縮政策を推し進める中で 国内の(そして さして有難くもない)仏教界に対しても圧迫をかけていたのではないかと言われています。

当然、国の施策に対して仏教界からの反発は容易に考えられ、その先鋒に盛海和尚が立っていたとしても不思議ではないでしょう。

つまり、国と仏教界の軋轢の中で国策に反旗を翻した盛海和尚が粛清され、その事実を改竄して、非道の悪僧 × 正義の王子の図式が描かれたのではないかという考察が存在するのです。

 

「大村御殿の門なかい 耳切坊主が立っちょんど・・」
で始まる子守唄の歌詞は “黒金” の怨みに満ちています。

続く「・・三体、四体立っちょんど」の部分は黒金のみならず、共に居た者も皆残らず 葬り去られたことを示唆しているとも言われています。

この子守唄で語られるのは、一見 悪逆の挙げ句、魔道に堕ちた妖僧を歌いながら、実態 当時の国の圧政を揶揄しているのかも知れないのです。

やはり、よく言われるように “生きてる人間が一番怖い” ということなのでしょうかね・・

 

人は誰しも幸せに生きることを願いながら 世の流れに翻弄され、時に迷い 時に苦しみ、挙げ句 進む道を見失ってしまいがちです。
得体の知れない困難を前にすればなおさらの事でしょう。

豊かな人生を望むのであれば、世に漂う惑いに流されず、少しでも明るく歩むべき道を自らに問い続けることではないでしょうか。

今回のお話、全ては過去の出来事、今となってはどちらが正義だったのか、何が真実だったのか知る由もなく遠い時の彼方ですが、茫洋とした表現の中に子守唄は その時その場にあった人の世の葛藤を描き 私達に問いかけをなしているのかもしれません。

 

 

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