福井県、日本海に面しながらもその領域に多くの山麓を擁し、美しく豊かな自然と穏やかな気風、様々な山海の珍味溢れることで知られるお国柄。 領国時代には敦賀湾を見晴らす鉢伏山付近を境に、北を「越前国」、南を「若狭国」とし、それは現代に至るまで「嶺北」「嶺南」の名によって引き継がれています。
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「越前国」
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戦国時代、越前国を統べた領主として名高いのは それまで守護を担ってきた斯波氏を継いで国主となった朝倉氏、中でも 織田信長の覇権に抗しながらも非業の最期を迎えた第11代当主 朝倉義景(あさくらよしかげ)でしょうか・・
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覇権や領土拡大への願望よりも領内の安定や文芸を好む性分であったため、戦国時代にあっては(領内における一向宗の抑制に力を削がれてもいたため)戦上手とはいえず、歴史物語的には今ひとつ精彩に欠ける面が否めませんが、頭脳は明晰、思慮分別に長けた人であり領民の生活向上や外交努力にも腐心していた名君であったとも伝えられています。
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とは言え、時は戦国の世、天正元年(1573年)近江 浅井長政のため援軍に出征するも信長の機転・奇襲によって敗退、熾烈な追撃をかけられた末、領地 越前一乗谷まで撤退するも家臣の造反によって自刃に追い込まれ、ここに朝倉氏の名は歴史から姿を消すこととなりました。
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「北ノ庄城 / 福井城」
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朝倉氏に代わって越前国は信長の支配下となり、改めて任じられた旧朝倉家臣たちにその統治を任せられますが、(石山本願寺の介入などにより)それも長くは続かず、結果的に信長直下、柴田勝家 によって治むるところとなります。
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越前入国後、48万石の領主となった勝家は平地の中央部 北庄に城を築き「北ノ庄城・後の福井城」一向宗の反乱多き越前の平定に臨み、北の上杉謙信の圧力に抗しながらもこれを成し遂げ その勢力は一時加賀国にまで及びました。
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しかし、後年、信長亡き後の羽柴秀吉と対峙し 賤ヶ岳の戦いで敗れ、北ノ庄城は勝家と妻の市 とともに紅蓮の炎に包まれながら落城の運命を辿ったため、現在ではその姿を当時の資料と復元模型にしか見ることができないのは残念ですね。
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宣教師 ルイス・フロイスによれば、非常に豪壮かつ秀麗な造りの城であったようで、落城後も後の時代に結城氏(越前松平家)によって再建されたものの、寛文9年(1669年)に火災で焼失した後 再建されることはありませんでした。
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現在では天守の代わりに福井県庁が建ち、隣接する一角は史跡公園として市民の憩いの場となっています。
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「丸岡城」
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柴田勝家が越前国平定に辣腕を奮っていた頃、九頭竜川を挟んで北の位置に築かれたのが「丸岡城」です。
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勝家の甥、柴田勝豊によって築かれ勝家を補佐するための支城として建てられました。
規模こそ小さいものの、北ノ庄城に習ったのか剛健な造りで屋根は越前産の笏谷石(しゃくだにいし)という石で葺かれており、これは時として豪雪に見舞われる当地の気候に対処したものと言われています。
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何を特筆すると言って「丸岡城」は現存する城郭であるということ、しかも相当に古い年代のものであり、近年まで ”日本最古の城” と目されるほどの貴重な歴史建造物だという点ではないでしょうか。
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天正4(1576)年に創建された姿そのままとされてきましたが、2019年に行われた調査では江戸時代初期1600年代前半のものという報告がなされました。
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それが事実とすれば、長野県の松本城(1593年?)や 愛知県の犬山城(1601年?)が日本最古の候補として有力ですが、それとて学術的に確定することは難しいそうで、詰まるところ丸岡城の1600年代前半というのも絶対的なものとも言えず、この城郭の歴史的価値が損なわれるものではないと言えるでしょう。
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400年の時を跨いで現在にその勇姿を留める丸岡城、この城には「霞ヶ城」という二つ名が存在します。往時には立派な五角形の堀に囲まれていたと伝わり、その領域に植えられた桜が見事で、春、咲き誇る桜の木々に浮かぶ天守の姿が霞に浮かぶ様を思わせることからこの名が付いたと言われます。が・・
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もうひとつ「霞ヶ城」の名の由来に引き出される伝承が、「合戦の折、龍が現れ霞を吹き出し瞬く間に城を覆い隠した」というもの、要するに丸岡城の守護神ということでしょうか。
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御存知のとおり福井には県を代表する一級河川「九頭竜川」が流れています。
九頭竜の名の由来には定説を得ず、竜神顕現にまつわる伝説、また 古来、度重なる氾濫により「崩れ川」と呼ばれたものが転訛したものなど諸説ありますが、いずれにせよ越前・福井の歴史において “水神” でもある ”龍” との縁は切っても来れないものがあるのかもしれません。
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「合戦の折・・」との伝承ですが、丸岡城は築城以降 大きな戦禍に見舞われていないので(だから現存しているのですが)、戦闘に見舞われたとするならば、やはり 北ノ庄城落城の時でしょうか・・
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初代城主である柴田勝豊はこの時既に丸岡城の城主ではなく、この世の人でさえありませんでしたが、崩れ行く「北ノ庄城」を憐れに思った竜神が、せめてもの名残に「丸岡城」だけでもと隠したと想像すれば、そこに伝説のロマンティズムを伺うことができそうですね。
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「北ノ庄城」の跡地には現代の行政 ”県庁” が、九頭竜川を挟んだ丸岡の地には 霞ヶ城「丸岡城」が、互いを補い合うが如く今日も福井の町を見守っているのです。