奇譚 そして民踊り 阿波の古狸が残したもの - 徳島県

「市 観光協会の破産手続き、阿波おどりは中止されるのか?」
突如として衝撃的なニュースがメディアを賑わせたのは昨年3月のこと
徳島市、徳島市観光協会(当時)、徳島新聞社、そして当地踊り手団体との間で紛糾を極めながらも昨年度は何とか開催にこぎつけ、今年度以降は徳島市監督の元、新たな実行委員会と委託民間事業者によって開催されてゆく見通しです。
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400年もの歴史を持つといわれる徳島の伝統芸能、末永く続けられてほしいですね

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その ”阿波おどり” の創始に関して 蜂須賀家政 が関わっているという説があります。
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蜂須賀家政(はちすか いえまさ)と言っても歴史に造詣の深い方ならともかく、一般的には知名度も今ひとつな印象のお方。 蜂須賀小六 (はちすか ころく)とい言うのは聞いたこと有るけどその親族かなぁ・・な感じでしょうか?
さも そのとおり、豊臣秀吉の忠臣としてその生涯を全うした蜂須賀小六の嫡男として永禄元年(1558年)尾張国に生を受けた方です。
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蜂須賀小六、美濃国 木曽川流域の土豪として育ち豊臣政権において武功のみならず実務、交渉などでも実力を発揮し ついには秀吉の相談役としての重責をも担った人ですが後年 永年の功労に対し秀吉から阿波国(17万3千石)の拝領を下されたにもかかわらず、自らは殿下(秀吉)の側でお仕えしたいとこの行賞を固辞、それならばと嫡男家政に阿波国が任せられる事となりました。
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歴史に名を留めるような派手なエピソードさえ無いものの、父 小六と共に数々の戦役に従事、多くの武功を残す有能な将であったと言いますが、上述の一件で阿波国の領主となり天正14年 国入りを果たします。
当面の間、古来から有った古城「一宮城」を居城とするものの何分にも古いため、新たな城を築く準備を始めました。

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そんな折の少し変わったお話が今も徳島には残っています・・

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昔々
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新しいお殿さんが阿波にいらっしゃった
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新しいお殿さんは新しいお城を築こうとさっそく家来をあちらこちらに遣わして良い山、良い土地がないかと探しはった
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方々探すうちに猪山が良かろうちう事になって お殿さんも直々に見にくる事になったんやと
山があり見通しも良く、水があり暮らすにも困らん、猪山の様子をすっかり気に入ったお殿さん、この地に城を築く事を早々に決めはると家来に城造りの準備を命じはった

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ところが ある日のこと
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普請(工事)を見にきてはったお殿さんの側にいつの間にか見知らぬ坊さんが一人立ってはる
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「何じゃ そちは? ここで何をしておる?」
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問うお殿さんに
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「わしぁ この山に住む ”せんげん” という坊主じゃが、この山にお城など作られたのでは困るけん 止めて下さらんかの・・」 と言わっしゃる
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はて、この山に大層な寺が有るなどと聞いたこともないが・・
と思いながらも お殿さん
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「余は領主となってこの国に来た、この山に新しい城を築きこの国を治めねばならん、すまんが諦めてくれ」 と諭しはったそうな
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しかし、この”せんげん” と名乗る坊さんは聞き入れず いつまでもいつまでも「止めてくれ」の一点張りで食い下がったそうな
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家来も来て追い返そうとしても動かず あまりにもしぶといので ついには無礼者!と とうとうその場で斬り捨てられてしまったんやと
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ところが びっくり、落とされた首はころころ転がりながらもニヤニヤ笑っておった
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驚いたお殿さんと家来やったが裏山の隅に埋めて終わりとし、城造りは進められたそうな

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時が経ってお城が出来上がると お殿さんはじめ多くのご家来衆がここに移り住みはった
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そんな ある日の晩、何もかもが寝静まった真夜中頃、寝所でお殿さんが寝てはるとスーッと音もなく襖が開いたそうな・・
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えらいもんで お殿さん、とっさに気配に気づいたものの知らぬふりをしたまま辺りの様子を伺っておったんやと
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すると今度は天井の板が一枚フゥッと開いたかと思うと暗闇の向こうから人の生首がニュッと出てきた
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見ると”せんげん” と名乗ったあの坊主ではないか、斬り捨てた時と同じくニヤニヤ笑いながらお殿さんを見下ろしておるではないか


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「おのれ!物の怪が!」
やにわに槍をとり その首めがけて突き刺したお殿さんじゃったが、何としたことか首は相も変わらずニヤニヤ笑いながらやがて暗闇へとまた消えていってしもうた・・
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これには さしものお殿さんも駆けつけた家来衆も怖気づいてしもうたそうな

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それからというもの 夜毎にその首は現れお殿さんや城の者をおびやかすので、皆ほとほと困り果ててしもうた、これでは政もおちおち進められん・・
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相談が進められ ”せんげん” を埋めた地を掘り起こし、骸を新たに見晴らしの良い場所へと移すと墓碑を建てこれを祀ったんだと
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すると、それっきり 坊さんの霊も現れなくなったそうな・・
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「坊主を殺すと七代祟られる」なんて戒めが昔はありましたが、この場合の”せんげん” はどうなんでしょう・・? 築城の邪魔だから切り捨てるというのも戦国時代ならではの暴挙ですが、切り落とされた首が夜毎にニヤニヤというのは元は僧侶というよりも 猪山に住んでいた狐狸か妖怪だったような気もしてきますね・・・

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さて、このお話と丁度同じ頃でしょう、冒頭でお伝えした「阿波おどり」ですが、蜂須賀家政 がこの ”徳島城” 竣工に際して城下の民に「めでたき時にて好きに踊るがよい」とのお触れを出し、これに応じて始められたのが現在において数十~百万人からの動員数を誇る「阿波おどり」の最初であったという話しが今に伝えられています。
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あくまで伝承ですので事の真偽は不明ですが、蜂須賀家政 という方は戦国武将の中でも比較的後発組、豊臣から徳川へと時代が移り変わってゆく中で それまでの武力だけでなく、家命存続のためにも行く道を探っていかなければならない世代でもありました。
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石田三成との半目もあり結果 東軍 徳川方へと与し最終的に家康によって所領を安堵されるに至り、81歳でこの世を去るまでお家安泰を全うすることが出来たのです。
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その手管を尽くした後半生から あの伊達政宗から「阿波の古狸」と揶揄されることもありましたが、その言う政宗も「二股の膏薬」などと言われていた事もありどちらにせよ皆がその身の置き方を問われた難しい時勢だったのでしょう
「天下分け目の」という言葉は「関ヶ原の合戦」だけでなく文字通り その時代に関わる全ての人々の明日への模索のキーワードだったのかもしれません。

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徳川方へつき永続を手にした蜂須賀家政でしたが 義も重んじていたのでしょう、過日の恩を忘れることなく隠棲の後には別宅の地にささやかながら豊国神社を創建、祀っていたと言われています。
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「阿波おどり」の創始とされるのも そんな家政の人となりが阿波の人々に慕われていたからかもしれませんね。

 

 

 

 

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