吉里吉里善平(後) − 岩手県

車や鉄道 自転車さえ無く 馬でさえ一般の人が移動手段として利用する事はほとんどなかった時代、当時の人達がどこへ行くにも徒歩オンリーであったのは当然の事だったと言えますが、江戸から伊勢参りの往復で人々が歩く距離を見てみると凡そ一日あたり10里(40km)以上にものぼると言われていますので、その健脚ぶりには頭が下がります。

村の衆と別れて上方への路を進む善平さんの旅は続きます。

 
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善平は伊勢を出ると来がけの路をまた戻り亀山の宿まで戻ると西に向きを変え 関宿を抜けてさらに西を目指した
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大阪の町は江戸にも劣らぬ賑わいで行き交う人々に目をまわしながらも 池のおなごに教えられたとおり北に折れ、今で言う北摂の地に向こうた
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猪名の郷に着く頃には町の風情も失せ 善平が住んでいた吉里吉里の村よりも深い山間の村だったそうな
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村の者をつかまえ 長尾の赤池 という所はあるかと尋ねると、皆一様に青ざめた顔で
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「あるにはあるが、あのような所へ何をしに行きなさる?」
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「あすこは魔物がおるっちゅうて地元の者でも誰も近づかんぞ」
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「行った者で帰ってきた者はおらん、やめておけ」
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と、誰も皆 行くことを止めてきたわ
それでも 大事な用があるからと頼み続け ようやく場所だけは教えてもらえた
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農家の納屋で一夜の宿を借り 翌朝早くから善平は赤池を目指して長尾の山へ入って行ったそうな

 
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人の通らん山道は雑木が行く手を阻み岩もごろごろ
進むごとにさらに道は細く険しく そして暗くなってゆく
泊めてもろうた家を出た時には晴れていた空はすっかり雲で覆われていた
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(あぁ、あの おなごの沼の時もこんな空模様だったな・・)
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思い出しながらも 腹の底からどんどん不安は湧き上がってきよる
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もはや登っているのか下っているのかさえわからんようになり、やがて ひときわ枝葉がかさみ鬱蒼とした雰囲気が高まった頃、木々の向こうに薄らかに水面が見えてきた


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沼の前に発った時にはすでに大粒の雨が激しく降り出し 山間の池だというのに激しく波立っておる
体も心胆も冷え切って もう今にも逃げ出したい気持ちで一杯じゃったが、おなごとの約束を何とか果たさねばと必死でその場にとどまった
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そして おなごに言われたように沼の前で「パーン! パーン!」と大きく柏手を二回打った
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すると今まで波立っていた水面が今度はぐるぐるぐるぐる、大きな渦を巻いて動き出すと、その真ん中に一艘の小舟が姿を現したではないか
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小舟の上にはぼんやりとした光に包まれて一人の翁が立っておる
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「その打ち手で儂を呼ぶお前は何者ぞ・・」
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翁の問いに善平は声を出すことも出来ず、只々預かってきた手紙を掲げておった
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「おぉ!これは我が娘の筆、そうか、娘よりの手紙を届けてくれたのか」
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善平の差し出した手紙を開いた翁の顔はほころんだ するとそれまであれほど吹き荒んでいた雨も風も そして激しい渦もぴたりと治まり辺りには静けさが戻ったそうな・・
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「それは遠き地よりはるばるご足労をおかけした」
「お礼をしたいゆえ ぜひとも我が棲家にお越し下され」
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翁に促され乗った小舟は池の中程まで戻ると トプンと水の中へ沈んだ
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慌てて口を塞ごうとした善平だったが、気がつくとそこは立派な屋敷の中だったんだと
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奥の間へ通されると穏やかそうな婆もおり 娘の手紙を読むと涙を流して喜んだ
抱いていた赤子のことを善平から聞くと夫婦してさらに喜び、これを運び伝えてくれた善平に重ね重ね礼を言ったそうな
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その日 善平はたいそうにもてなされ、多くの黄金の土産を持たされた
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翌朝 池のほとりで見送られた時、翁がこう言うた
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「時に善平殿、この沼まで来られる山道は険しかったであろう」
「せめて麓の村までお送りするゆえ 目をつむっていて下され・・」
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善平が目をつむるとフワッと体が浮いたように感じたが後はよく憶えていない・・

 
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何か足元がしっかりしたような気がして恐る恐る目を開けてみると そこは穏やかな日差しのさす村の道であったそうな
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善平が自分の里に戻ったのはそれから一月あまり後のことじゃった
先に帰った村の衆からあまりに遅れていたので皆心配していたが 道の迷って遠回りをしてしもうたと言い訳しておいたんだと
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その後 沼のおなごにもろうた巾着のおかげで 暮らしにもゆとりが出来た善平は翁達からもろうた黄金を元手に商売を始めた
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人に好かれる性分と、一度した約束は何としても守る生真面目な商いが評判となり やがて吉里吉里で一番の商家となって繁盛したそうじゃ

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さてさて、苦労の末に安泰を手にした善平さんですが、これには「吉里吉里善兵衛」(善平ではなく善兵衛)と呼ばれた実在のモデルがあったようです。
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祖先はれっきとした武家であったようで 後北条氏に仕えた士族でしたが、後北条氏没落にともない気仙の地に逃れ、後の代に吉里吉里に移り住んだとされています。
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このお話のモデルとなったのは おそらく吉里吉里移住後の二代目、前川善兵衛富永ではないでしょうか、商家としての前川家勃興を果たした人物とされ富永以後、代々善兵衛の名を継いでいます。
盛岡藩の御用商ともなり大家となりながらも、子孫の代 宝暦の飢饉には蔵を開けて難民を救うなど お話の善平さんのごとく良心的な印象が持たれますね。
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元々は地元の魔性譚であった寓話に、これまた地元の名士でもあった善兵衛さんが絡められることで成立したお話なのでしょう。
善平さんのような誠実と熱意、地道な努力が実って陸奥の地に一日も早い復興が叶いますように・・
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民話・伝承は正に地域の歴史と佇まいを映す鏡 とも言える一編でした。

 

 

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