変遷は時の命ずるが如く馬籠の宿 – 岐阜県

私の住む和歌山県には とても特徴的な自治体があります。 東牟婁郡 北山村、〜日本でただひとつ、県内の他市町村と接していない「飛び地」の村です(北山村HPより)〜。

この画像にはMap-It マップイット様提供の地図を流用させて頂きました。

明治の廃藩置県において、地理的に見ると本来 三重県か奈良県側に属しそうなところを、和歌山県 新宮市との結び付きが歴史的に深かったことから、住民たちの強い要望によって和歌山県所属の自治体となりました。

四方を他府県で囲まれ完全に県外に離れた「飛び地」。 新宮市から車で1時間掛かる位置に在りながらも、現在に至るまで独自の形態を保ち続けています。

 

県外に孤立していない「飛び地」(県内での市町村や特別地区の飛び地)の方は意外と多く、貯水池など「準飛び地」と呼ばれるものまで入れれば国内に200ヶ所近くあり、中には大阪国際空港(伊丹空港)敷地内の “豊中市、池田市、伊丹市” の飛び地混在や二重飛び地なども存在するそうで・・。

飛び地が発生する理由は、北山村のように歴史的なつながりを要因としたもの。地形や流通の変化を原因としたものなど、その土地ならではの理由があるものですが、中には昭和中盤時代まで自治体さえ認識しておらず、何故そうなったのか不明のものまであるそうです。

Wikipediaを見ると、他にも “国家の飛地” “行政区画の飛地” “選挙区の飛地” など古今東西 様々な飛び地があり、人の歴史とは、時に土地そのものの地籍にも影響を残していくのでしょう・・。

 

本日 ご案内する岐阜県中津川市馬籠は、そうした飛び地とは異なりますが、「越境合併」という珍しい所属移動をした経緯があるそうです。

「越境合併」、通常の自治体合併は大半が都道府県の中で行われますが、極稀に県境を越えた隣接地域との合併があるようです。当然 合併後は県境が変更されて、地域喪失側の県は面積が減少するわけですから反対意見も強く「越境合併」が可決されることは難しいのですが・・。

 

馬籠(まごめ)、通称『馬籠宿』の名の通り 江戸時代における “中山道六十九次” 43番の宿場町。

江戸幕府 草創期から整備が始められた いわゆる “五街道”。日本橋(江戸)を基点に四方に伸びた基幹道路。 その中でも “東海道” とともに “京の三条大橋” までの東西を結ぶ “中山道” は、山間を抜ける険しさを持ちながらも主力級の街道でありました。

総距離135里(530km)別名 “木曽路” と呼ばれるように、大半を山間路が占めることから過酷な道ではありましたが、大動脈ともいえる “東海道” が江戸防備の観点から様々な制約があったため、敢えて “中山道” を利用する旅人や商人も多く、往来が絶えなかったといいます。

 

日本橋から数えて43番目、現代的にいうなら “長野県” を抜けて いよいよ “岐阜県” に入る玄関口ともいえるのが『馬籠宿』。 宿場そのものが山の尾根を伝う “坂のある宿場町” 。

今風の感覚で言うなら、こんな険しい場所によく宿場町が出来たものだとさえ思えそうな程ですが、中山道 / 木曽路の宿場は何処もこのような感じだったのかもしれませんね・・。 江戸時代後半の記録で700人余りの宿場人口に対して、18軒もの旅籠(旅館)(他に本陣・脇本陣 計2軒)があったことからも、この小さな区域が宿場として重要に機能していたことが分かります。

そして 先にも触れましたように、この『馬籠宿』は岐阜県・当時の美濃国の玄関口でありました。一つ手前、42番の宿場「妻籠宿」までが信州・長野県であり、『馬籠宿』は美濃州・遠山庄馬籠村であったのです。

 

そんな馬籠宿が美濃国から外れたのが、やはり明治4年に行われた “廃藩置県”。「度会県って何? 全国で300県越えって?」でも触れましたように、当時 国家の統合・強化を急ぐ政府は とりあえず旧藩をそのまま “県” へと改組(3府302県)。その後半ば強圧的に離合集散を課しながら自治体の整理を進めていきました。

馬籠宿(馬籠村)は当時 新設された “名古屋県” に編入されました。現在の名古屋市及び愛知県から馬籠までは相当の距離がありますが、調整設置の “名古屋県” は岐阜地域まで包含する広大な暫定県だったのです。

その後、調整が繰り返され馬籠村の所在は “筑摩県” へ。このとき村名も変更 “筑摩県筑摩郡神坂村(みさかむら)” となります。

数年後 筑摩県の解消に伴い周辺地域が “長野県” に編入されたことによって長野県所属となり “長野県西筑摩郡神坂村” (後に木曽郡山口村神坂)に。この形を基本に平成中盤に至るまで130年に渡って 馬籠の地籍は美濃から離れ、そして馬籠の名も忘れられていたのでした・・。

元々 美濃国・岐阜県の領内であり、つながりの深かった馬籠 / 神坂村に最初の転機が訪れたのは、昭和30年代を中心に行われた “昭和の大合併”。

このとき神坂村は古来からの美濃国とのつながり、そして中津川市の方が生活上の利便性が高いことを背景に、岐阜県への復帰を模索していましたが、既に90年から続いた長野県との関係もあって越境合併に賛否紛糾。

結果、部分的な県境移動に終わり馬籠地区は長野県に残ることとなってしまいます。

以来 その47年後、いわゆる “平成の大合併” において住民からの要望により再度 合併案が提出され、ついに旧神坂村全域が岐阜県側に越境合併されることとなったのです。

130年振りの帰郷とでもいえるでしょうか・・。
住所は “岐阜県中津川市馬籠” となりました。

 

「木曽路はすべて山の中である」

馬籠宿出身の作家 “島崎藤村” による小説「夜明け前」の冒頭一節。馬籠村を舞台に藤村の父を主人公とした歴史群像の一遍です。藤村 晩年に近き連載であり集大成ともいえる作品でもありました。

小説であり全て実話ではありませんが、藤村の父と馬籠の村の面影を濃厚に反映しながら、このような山村の一画にまでも歴史のうねりは否応なく押し寄せ、それに翻弄される人々の姿が克明に描かれています。

巻き込まれる時代の流れに関わらず過ごせる人や土地は何処にもなく、全ては時の命じるままに そのあり様を変えてゆく。 それでも変わらぬものがあることを信じたい人の心・・。

現在、馬籠宿は閑静な山間に佇みながらも “中山道ハイキング” の逗留地として、古の情緒と賑わいを今に伝える文化継承地として整備され、知る人ぞ知る散策スポットとして人気を集めています。 200年の昔を数多の変遷を超えて伝える宿場町。機会があればぜひ・・。

『木曽馬籠 / 馬籠観光協会』 公式サイト

『夜明け前』 青空文庫 「一部上」 「一部下」 「二部上」 「二部下」

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