万の灯りに異彩の城は何を見る – 福岡県

日本の城、一口に城と言ってもその形は時代・状況によって移り変わるもの。・・という話は以前にも少しだけ触れたことがあるのですが・・。

古代における柵囲いの簡易なものから 戦国時代に多用された砦状の山城、時代の落ち着きとともに戦よりも象徴性や為政機能を重視された平城など、多様な類型・歴史を織りなしてきました。

現在 一般的にイメージされ、また観光史跡として機能する多くの城は、その多くが豪壮な天守を構えた戦国時代後期から江戸期に至る山城や平城なのですが、これらは戦時の守備に重きを置きながらも大規模な人員を抱えるために、常駐施設としての運用面にも気を配らなければなりません。 如何に立派な姿の城でも城単体だけでは立ち行かないのです・・。

 

人が多く集まる場所において物資の調達は必然事項であり、その運輸経路の確保は最重要課題でもありました。その経路を陸路だけでなく海路に多くを求めて建てられたのが “海城” と呼ばれる形態です。 海岸線を持つ国(現在で言うところの都道府県)には、必ず幾つかの海城もしくは海城跡があるそうです。

福岡県北九州市は100万人口を擁する九州屈指の大都市、中でも関門海峡を挟んで本州に相対する(現在の)”小倉北区” 地域は、往古より九州玄関口の役割を担ってきた場所といえるでしょう。 長門国(山口県)から九州に結ぶ結節点であり狭小な通路を抱えるこの地域は、入るにも出るにも通過を避けて通れない歴史的要衝であったのです。

古く鎌倉時代には既に城が建てられていたといわれる当地、 豊臣政権下の時代には九州勢力に対する抑えの拠点として、重臣 森吉成(改姓後 毛利勝信)が入り旧城の整備を図ります。 ”紫川” を通じて海峡につながる城は、運用に長けた戦略拠点として重宝したのでしょう。

秀吉が世を去り関ヶ原合戦の後、西軍に与した毛利氏が退けられると、1609年(慶長14年)当地に入封したのが “細川忠興”(細川ガラシャの夫・入府当時 既に夫人は逝去)でした。 忠興は入封が決まった時から根本的な城の改築を構想、1602年から7年の歳月をかけて その後に続く『小倉城』を築き上げたのでした。

 

内濠に面した天守閣は四重五階の大天守と一重の小天守からなる壮麗なもので、特に大天守は “唐造” と呼ばれる斬新な回廊部分と、”破風” を排した 当時としてはかなりスマートな外観を誇りました。

こうした洗練された構想と美意識は、忠興が 文武両道、教養人としても名を馳せた父 “細川藤孝(幽斎)” から受け継いだ先進的な感覚によるものとされ、その結晶でもある小倉城には他国からの視察団も相次ぎ、後世の築城技術に大きな影響を与えました。(一説には徳川時代における築城制限を掻い潜るための技術としても応用されたといいます。)

細川忠興

静謐な時代の到来を見据えた忠興は城下町の形成と興隆にも注力。父の代から見知った京の町を参考に、商産業、都市開発、地域文化の振興を推し進めたことにより、後に続く小倉文化醸成の礎が築かれたのです。 これらの発展にも海の玄関口として機能していたことが大きく作用しているでしょう。

 

忠興治世の約30年後、後を引き継いで小笠原氏が入封、以後 明治に至るまでその領地となりますが、1837年(天保8年)失火により天守閣は失われてしまいます。 しかし、最早 江戸時代も後期、莫大な費用を調達してまで天守の復活は成されませんでした。

小倉城には天守閣が無いまま武士終焉の時代を迎え、以降、幕末期の動乱や明治政府軍部の駐屯など、幾多の時の変節を見つめてきたのです。 太平洋戦争中には小倉に陸軍造兵廠があったため、米軍空爆の標的とされ甚大な被害を被り、また原爆投下の目標地とされていたともいわれます・・。

戦後は米軍の接収地となり、永く市民の手の届かぬ所となったものの昭和32年にようやく開放。 市民・地元有志を中心とした文化復旧活動の一環として、象徴でもあった小倉城天守閣の再建が進められ、その2年後の昭和34年 コンクリート造り・外観復元ながらも、122年の時を超えて小倉城天守閣が復活されたのです。

昭和40年代当時の小倉北区、中央やや右上の濃色の辺りが小倉城地区。

誠にめでたき事業完遂、今日見る小倉城の基礎がこの時出来上がったのですが・・ひとつだけ・・。

 

復元当時、一般市民の感覚は現代ほどの成熟をなしておらず、歴史的建造物の意義を的確に捉えられていませんでした。 地元民とはいえ百年昔・小倉城のそもそもの姿を知る者も限られていたため、有識者による復元図面を見たとき、そのあまりの斬新さに却って戸惑いを憶えてしまったのです。

威風堂々、豪壮な姫路城や大阪城、そして同時期復興予定の熊本城のような “破風” の追加を熱烈に要望したのでした・・。

完成の姿の良し悪しはどうあれ、元々無かったものを足した形は歴史考証を無視したものといえなくもありません。 今となってはむしろ考証に基づいたユニークな威容であった方が、よほど観光訴求力が高かったのでは? とも思えますが、そこはそれ、今だから言えることで、私が昭和34年の小倉に居たなら同様の判断をしていたかもしれませんね・・。

画像 © Wikipedia より引用

それでも、元来の姿と市民の要望を折衷させながらも見事な外観を構成仕切った、藤岡通夫氏(日本の建築史家)の力量には感服ものだと思います・・。

 

そんな小倉城の敷地内でこの10月27日から11月5日までの一週間、『小倉城 竹あかり』が開催されます。

つるべ落としの秋の日、夕闇も近づく17時30分から21時前までの時間、小倉の城郭を浮かび上がらせるかのような竹灯の数はおよそ3万にも上るのだそうで・・。

刻一刻と深まる宵の帳の中に揺らめく灯は、そこに集う人々の厳かな想いとともに、異彩に生まれ一時は姿を失い また生まれ変わって小倉を見つめ続ける “城” の佇まいを照らし続けることでしょう。 姿を変えても、その地にその城が生まれ、人々と歴史を織りなしてきたことに変わりはないのです・・。

『小倉城 竹あかり』では参加者による竹灯着火も認められているようですので、ご興味のある方はライターやチャッカマン持参でご来場ください・・とのことです(^^)。

 

『小倉城 竹あかり』 公式サイト

日時:令和5年10月27日(金)28日(土)29日(日)11月2日(木)3日(金)4日(土)5日(日)7日間開催

場所:小倉城・虎ノ門及び周辺エリア

時間:17時30分点灯(チャッカマン持参でみんなで火を点けましょう)21時00分消灯
※21時00分には閉門いたしますので、入城は20時45分までとなっております。(21:00には全員退城となります)

料金:一部有料  小倉城天守閣広場 観覧料500円(環境協力金/中学生以上)
チケット販売時間/15:00〜20:40 最終入城は20:45
(※販売は各種コンビニ、チケットびあ、ローチケ、eplus、辻利茶舗魚町店、Yahoo!パスマーケット、KKday、当日大手門入口発券所にて)

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