小粒豆粒から天を突く大男まで(後)- 茨城県

さてさて・・って、前回も同じ出だしでしたねw。
前回、茨城県水戸市から「納豆」にまつわる歴史や言い伝えをご案内しましたが、その中で水戸市の東北端を流れる那珂川(なかがわ)による自然災害との関わりにも触れました。

那珂川の決壊と大規模な水害が、穀倉地帯であった当地における悩みの種であり、故にその対策案として植えられた早生大豆から「納豆」の文化醸成につながったことは前編のとおりですが・・。

では この那珂川、その流域において常々 越水(水が溢れ出すこと)ばかりしていたのか? というと当然そういうわけでもなく・・。
それどころか場所によっては取水に難が出るほど水不足で、灌漑開発が通年の課題である場所もあったそうで。

関東随一の清流といわれながら、ある意味 不安定な川とも見て取れますが、これは那珂川そのものだけに問題があるのではなく、また往古においての河川は何処の場所においても、恵みと災害の両面を持つ御し難いものでもあったのです・・。

 

少し大きな?話になりますが、水戸市、茨城県、・・だけでなく東京・神奈川・埼玉まで含めた関東一円の大半。12万年ほど前は一面 海面下でありました。(「古東京湾」と言います。ちょっと驚きですね) 間氷期(多少の寒暖を繰り返す氷河期の中の暖かい期間)の真っ只中であり、海進(海水面が上昇して海岸線が現代よりかなり内陸部寄りだった。)の時期でもあったからです。

その後、反転、気温は下がり続け 蒸発した海水は地上への降雪・氷河となり海退が進むと、未だ海抜も低いながら大地が顕わとなるのですが、そこに厚い地層を引き慣らしたのは、幾度にも渡る大規模な火山活動、そこから来る膨大な降灰でした。 ”関東ローム層” と呼ばれる赤色粘土層の形成であり、現在の関東平野の基礎ともなりました。

関東ローム層は常態にあって地盤も固く地耐力も高いのですが、粘土質特有の柔らかさや脆さをも併せ持っており、一度 その地層が崩れた場所は、さながらに脆い土地となってしまい地質的な復旧には相応の期間を要してしまいます。 不安定な治水を強いられた平野部の地勢には、こういった自然の背景が遠因にあったのかもしれません。

ともあれ、人が生きてゆく上で好都合な面も不都合な面も、全ては自然の立ち行き、天地の流れの中で生まれてくるのです。 人は自らの暮らしのために様々な策を講じますが、それが自然相手となると・・中々に難しいところですね・・。

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『名変わりの山』

水戸の東の端っこ 中妻ちゅう里は落ち着いた良ぇところでの
村人たち 日々穏やかに暮らしておったのじゃが
いつも ひとつだけ困ることがあったそうな

それというのも 中妻の東 朝になると丁度 お天道さんが昇ってくる方角に高い山があっての・・

おかげで 日の当たるのも遅く 何くれ日陰にもなりがちで
作物の育ちも悪い 冬場は寒い 朝早うから畑仕事も始められん と色々難儀じゃったと

ついには 誰言うと無く “朝寝坊山” と呼んだそうな

畑へ仕事にでる者たちはいつも口にしておった

「まぁ困ったべな どうにもあの山にゃ困ったもんだべ」
「あの山があるかぎり 麦も育たねぇし 朝寝坊の怠け者ばっか増えちまって どうにもなんね・・」
「何とか あの山を いしゃらかす(移動する)ことは出来ねぇもんかのう・・」

言うもんの 山を動かすなんてこた誰にも出来ね
しゃぁなし あきらめ半分 短い一日を働いたのだと

 

ある日のことや

二人の村人が今日も今日とて「困った困った」と話しながら
野良の帰り道を歩いておると

「何が困ったんだ」と大きな声がする

いきなりのこと びっくりした二人が声のした方 を見ると
そりゃまぁ大きな男が田んぼの中で寝ておるではないか

「何が困ったっていうんだよ」

大男は問い直しながら ぬっくと立ち上がった
こんな大きな男 村はおろか近在で見たこともない
まるで 朝寝坊山が もう一つできたような大男だったと

あまりのことに 身も腹も縮み上がってしもうた二人じゃったが
このまま黙っておるわけにもいかん

どうにかこうにか わけを話して聞かせたのだと

すっと大男

「ん〜・・ なるほどな そんならちょっくら その山を動かしてやんべ」
「だけんどなぁ おめぇらが困ってんなら 移されたとこの人らも また困んべ? そんなんじゃ力は貸せね いっぺん村さ帰ぇって皆とよく相談してきろや」

という・・

二人は 自分たちの村のことばかり考えておったことが恥ずかしゅうなり 泡を食うように村に走り帰ると 村の衆たちと話し合うて

人の住んでおらん 北と西の山続きの方に移してもらうことに決めたのだそうな

 

次の日 村長はじめ村人総出で大男に頼んだそうな

「ん〜・・ よおし んでは移すぞ 」

立ち上がった大男は 大股に歩いて山のところまでくると
大手をひろげて朝寝坊山をガッシと抱え

「おぅりゃぁ!」の掛け声もろとも山を持ち上げたと

ズシン ズシンと地を震わせながら 山続きのところまで来ると静かに山を下ろしたのだと・・

山を持ち上げる時に深く抉り過ぎたのか その跡は大きな窪みとなった
このままでは雨水が溜まっていつか溢れてしまう

大男は窪みの端から地を裂いて川を作り それを受ける湖も作った
後にその川は “裂く川” から “桜川” へと変わり 湖は “千波湖” と呼ばれたそうな

目を丸くして声も出ない村人たち・・

ふり返って見おろす その大男の顔は まるで入道雲が笑ったような 力強くも優しい笑顔であったという

見る間に その影も薄くなって消えてゆくその大男に

「どうか お名前を!」と我に返り問いかける村人たち

「おれは ダイダラボウ じゃぁな・・」

言いながら 山の彼方に消えていってしもうたのじゃと・・

 

北西に移された山は “日が暮れたようになってしまう山を伏した” ということから「くれふし山」と呼ばれ 後の時代には「朝房山」となった

大男が歩き しばらくの間 足跡の残った場所は「大足」の名が付き
今でも「大足町(おおだら-ちょう)」の地名として残っている・・

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ダイダラボウ・・、ダイダラボッチ、大人(おおひと)とも呼ばれる巨人伝説は全国に点在しており、その由縁は国造りの偉人とも巨大な神・妖怪の類ともいわれますが、同時に国土を形成していった自然現象そのものではないかとも考えられてもいます。

私個人としては、人智を超えた自然の動き説を指示したいところですが、皆様は如何でしょうか・・?

次回 もう一度、茨城県から観光のトピックをお伝えする予定ですが、その中で、今回のダイダラボウ関連の短い民話を付記する予定でいます・・。

 

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