海境の国は最前線の島だった そして現在は – 長崎県

玄界灘、対馬、壱岐、そして西海の 五島

現代においては閑静な風情で国家行政の本道からは退き、ある意味 地方の中の地方な認識さえ免れない質朴の暮らしですが、沖縄をはじめとした南西諸島と同じく、これら九州北西部の島々も古来より大陸や朝鮮半島との関わり深き海の玄関口でした。

交易や文化交流の拠点としてならば喜ばしいことなのですが、島の歴史も時として欲望や打算に渦に巻き込まれる ”被災地” や、逆に ”戦” の拠点としての姿を現します。

鎌倉時代中期に起こった「元寇」以降、日本は国内における覇権の推移に移ったため(いわゆる戦国時代を中心とした)歴史のメインストリームから距離をおき、一見 ”戦” とは無縁の土地であるかのようにも見えますが、ここにも ”戦の時代” の痕跡はそこここに残っているのです。

 

国土と半島を隔てた およそ中央に位置する『対馬』 対馬本島を主軸に6つの居住島、102に及ぶ無人島によって構成される島嶼群、律令制の時代 “対馬国” と呼ばれ、さらに神代にまで遡ると “国産み” において “天之狭手依比売 / アメノサデヨリヒメ ” の神格の名のもとに誕生しています。

※ “天之狭手依比売 / アメノサデヨリヒメ ” は神義未詳ながらも 漁獲や海にまつわる神ではないかとされ、”島大國魂神社” はじめ島内の多くの社に祀られています。

古代、対馬は ”津島” とも表され早くからヤマトの王権と深い関わりをもっていたとされており、その位置関係から大陸・半島との交通や交易の要衝でもありましたが、女帝 神功皇后の ”三韓征伐” の際にはその足掛かりの地ともなりました。

そして、天智2年(663年)朝鮮半島内の内乱に関わり大敗を喫した “白村江の戦い” 以降、今度は半島からの逆襲に備えなければならない事態に陥ります。

 

金田城 南部石塁

『 金田城 』(かねだじょう / かねたのき)

本島中央部、浅茅湾(あそうわん)を望む 美津島町黒瀬の山の尾根に その城跡は今もその面影を留めます。 GoogleEarth で見ても最大倍率でその姿を確認出来るくらいの質素な形跡ですが、全周 2.8km に及ぶ石塁が張り巡らされ、標高276mの山頂からの眺望による索敵警戒と、有事の防戦に重きが置かれていたことが察せられますね。

防人(さきもり / 防衛のために動員された兵士)が駐屯し、狼煙(のろし)や烽火(とぶひ)などの設備も整えられていましたが、半島内は内戦が続いた後 新羅 そして大陸の 唐によって平定され、後に日本との間にも国交の正常化がなされたため、建設以来、奈良時代の頃にはその役割を終えていたともいわれています。

因みに『日本』および『天皇』の号が正式に使われることになったのも この頃といわれ、この時代の国内・国外の状況がいかに慌ただしいものであり、国体を定め体外的な体制構築を急いでいたかが伺われます。

 

清水山城 本丸東虎口

『 清水山城 』(しみずやまじょう)

時は流れて1591年、豊臣秀吉による “文禄・慶長の役”(いわゆる朝鮮征伐)において兵站(軍の食料や消費物の貯蔵・輸送)の任を担うため、厳原町西里の清水山に領主 宗義智(そう よしとし)によって築かれたのが「清水山城」です。

「金田城」とは逆に東側(対馬海峡側)の山に築城され、本土からの物資搬入と外敵からの防護を優先しているように思われます。 また 後代の城らしく 山の稜線に沿って本丸、二の丸、三の丸とその施設と機能を分散配置されており、今日においてはその建物さえ残ってはいないものの石塁・石垣などは比較的良好な状態で残っているそうで、当時の築城技術や朝鮮出兵の状況を推し量る上で貴重な遺跡と言えるでしょう。

 

金石城 櫓門

 

『 金石城 』(かねいしじょう)

「清水山城」の麓に建つ平城が「金石城」ですが、ここは義智の先代 宗将盛(そう まさもり)によって築かれ 当初 “金石屋形(かねいしのやかた)” と呼ばれていた 宗家一族の居城・館を元としており、同時に本土からの朝鮮使節団の逗留所でもあったそうです。

後に厳原の大火により消失した館を、後代 義真(よしざね)が再建した折に、天守を思わせる特徴的な大手口の櫓門(やぐらもん)が作られ、その稀有な佇まいは ”城マニア” の注目をも集めています。

江戸期建造の貴重な建築物であったものの、老朽化による危険性が増したため大正8年に一旦解体された後、長い間その勇姿を潜めていましたが、平成2年 厳原町のまちづくり事業の一環として見事に再現され、「対馬歴史民俗資料館」とともに対馬を訪れる人々を迎えています。

 

対馬にはこの他にも「桟原城」(さじきはらじょう)や「撃方山城」(うちかたやまじょう)など10ヶ所以上の城跡が残っており、また 本土に近い 壱岐・壱岐島(いきのしま)には20以上、長崎県西方の 五島・五島列島(ごとうれっとう)には 10ヶ所からの 城跡・軍備施設、そしてそれら関連の館が当時その威容を誇っていたようです。

「兵どもが夢の・・」の言葉の如く、現在では それら史跡の多くは、あるものは土にまみれ自然に還り、また あるものは新しい町並みにかき消されてしまっていますが、「島」という限られた広さの土地の中にこれだけの軍事に関わる施設が有ったということは、異国に相対する・間近に目に見えぬ国境線を持つ緊張感と常に隣り合わせでいたということでしょう。

 

「争いは悲劇以外の何物をも生み出さない」と言われます。
侵略や略奪を常とする戦争はそれを行う側であっても被る側であっても決してあってはならない行為なのです。 それでも過去 幾度となくそれが繰り返されてきたのは時の権力者がそこに何らかの利益や虚勢を見込んだからなのでしょう・・

大戦以降、幸いなことに日本は戦争に関わらない道を歩んできましたが(平和維持活動(PKO)等を除いて)、 ここに来て若干気がかりなことも増えてきています。

島が海外からの観光客を迎えてその経済が潤うのは結構なことなのですが、島民の数に比してその観光客の数が少々多すぎること(10倍~20倍)、そして島内の土地の多くが海外資本によって買われていること(自衛隊施設近隣の土地も含む)など、現時点ではともかく今後の行く末に懸念を抱きそうな流れも少なからず見られます。

多くの国々で他国資本による土地購入に制限が設けられている中、日本には事実上それを規制する法令が存在していないことが その原因ですが、今のところ立法化の目処はたっていません。

争いは避けなければならない凶事ですが、それ以前に いつかそこに結びつかない対策も必要な気がするのですが・・

海境(うなさか)の国(島々)は現代にあっても一抹の緊張と不安を抱え続けているように思えてならないのです・・

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください