情熱は私欲から夢へと変わる 油屋熊八(後)- 大分県

1900年代、パリでは万国博覧会が開かれ、アメリカではライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功、維新以降、富国強兵に努めてきた日本は日清戦争を経て日露戦争へと歩を進めていた頃・・世はまさに激動のさなかにありました。
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世間が大きなうねりの中にあるとき ある人は上手く流れに乗り、またある人は潮流に飲み込まれてしまう。 ありあまる才能や財産を持っていても、時として転落の道を歩むことになってしまう事もあるのが人生の難しいところ・・
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持てるものの全てをなくし失望の中で新天地を求め異国に渡ったものの、さしたる実りも結ばぬままに帰国、鬱々とした日々を過ごす中からようやく一筋の光を見つけたのか・・ 油屋熊八、残りの人生を賭けた旅が始まります。

 

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「言葉を思い出した男」
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別府の土を踏んだ熊八が頼りに臨んだのは、知己の友人であった佐藤通 氏(洋画家 佐藤敬 氏の父)であったそうです。
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佐藤氏に一軒の住まいを用立ててもらった熊八は、大阪時代の知人に掛け合い ささやかな資金を集めると この家を小さな旅館として開業、「亀の井旅館」と名付けました。 大阪で世話になっていた亀井タマエの名を冠したのでしょう。
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小さいながらも この旅館の経営はぼちぼちと軌道に乗り その名を広めてゆきました。
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当時、既に別府 由布院(湯布院)は温泉地として知られていましたが、まだまだ一地方の湯治場としての感覚が強いままでした。 その中で旅館としての名声と業績を上げていった背景には、熊八が常に大切にしていた言葉「旅人をねんごろにせよ / 訪れる者を篤くもてなしなさい」があったようです。
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この言葉は新約聖書 ヘブル人への手紙 の一節であり、アメリカ放浪時代 最後に訪れたキリスト教会で日系人牧師から授かった言葉でした。
何一つ得るものの無かったと思われた渡米の旅でしたが、熊八の胸の奥底に静かに眠り続け、ここ別府の地で今見事に輝き出したのです。

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昔ながらの宿のあり方を見直した熊八は、宿の評価にその清潔感が大きく影響することに早くから気づき まず部屋の環境を改めました。
上等の寝具をしつらえ 調度品も畳も常に美しく保ち 一級の衛生を旅客にアピールしたのです。
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そして一流の料理人と契約すると当時まだ一般的でなかった豪華な西洋料理をも提供しました。
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亀の井旅館に泊まれば 他で味わえない安らぎと喜びを得られる。 この評判は徐々にそして確実に広まってゆき、時には外国からの宿泊客も訪れるようになったそうです。
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一流のもてなしと一流の料理、そして宿泊の要でもある “湯” については比類ない別府の湯がある。これで観光客を呼べないわけがない・・ そう考えた熊八は次のステップを夢見るようになってゆきます。
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しかし、それは かつて己が栄達を目指して見た夢とは少々趣きが異なっていました。
「旅人をねんごろにせよ」は自己の一旅館のことにとどまらず、別府そのものの発展に向いていたのです。

 

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「湯煙の地獄に極楽を創った男」
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別府港に出入りする汽船は既にありましたが、当時接岸する場所がなく旅人は沖合から小舟に乗り換え別府入りする状態でした。
旅人をもてなそうというのに入口がこれではだめだ と考えた熊八は、自ら大阪商船に談判、これを実現させたのです。
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外国に負けない設備とサービスをと、旅館を全面的に改築「亀の井ホテル」として再発足、今日に続く “亀の井” の基礎を作り上げました。亀の井旅館 創業から13年後のことです。
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そして、せっかくの温泉地・景勝地をすみずみまで味わってもらうため、それまでに得た利益を投入して観光バスを創設、日本初の女性バスガイドを添乗案内させるなど、自分の持つ私財・アイデアの全てを注ぎ込んで別府を日本屈指の観光地へと押し上げたのです。

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丁度 この頃、ひとりの男性が別府の町を訪れました。訪れたというより流れ着いた という言い方の方が近いかもしれません。 彼は石川県の出身で実家は裕福な家柄でありましたが、自らの道楽趣味でその財産を食い潰してしまい さすらうように由布院の地に小さな庵を結んだのでした。
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名を中谷 巳次郎(なかや みじろう)、熊八と似たような前半生ですね。
噂を聞き庵を訪ねた熊八の話に感銘を受けた巳次郎は、熊八とともに別府の観光発展に尽くす決意を固めます。
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巳次郎の場合、財産を食い潰した道楽趣味の知識がここでは役に立つことになります。
熊八の片腕として その才覚を発揮した巳次郎は、やがて別府の奥座敷とも呼ばれる由布院に海外の要人・貴賓をももてなす「亀の井 別荘」の開館に尽くした後、その運営を任されることとなります。
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別荘の名のごとく当初から自然に抱かれた長期滞在向けの高級旅館であったといいます。

 

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「ピカピカのおじさん」
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“観光立県” だとか “観光推進” の言葉がもてはやされて久しいですが、およそ100年も前に本格的な “観光立志” を夢見、成し遂げた油屋熊八、彼の足跡は上に書いたものだけに留まりません。

・ キャッチコピー
「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」という宣伝フレーズをこの時代に編み出した

・ スポーツリンク
昭和元年に別府ゴルフリンクスを開設し 観光+スポーツという概念を打ち出した

・ 地獄を極楽に
古来より忌まれた地であった温泉地獄を逆手に取り観光事業の要として成功させた

・ 温泉マーク ♨
温泉マークを別府温泉のシンボルマークとして使い全国に普及させた

・ 資金
今日では行政や協同資金が拠出する観光開発資金の大半を自己資金から賄った
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現代において観光のみならず様々な計画に必須のプロデュース項目を この時代に軒並み立案・実行しており、あまつさえ私財を投じての推進であったのは その目標が自己の内だけに留まるものでなかったことを現していたのでしょう。

 

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油屋熊八には本妻であるユキとの間にも、大阪で長く過ごしたタマエとの間にも子がなかったといいます。(他の女性との間に一子を設け血筋は受け継がれています)
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自らの子と過ごすことがなかったからなのか、熊八はとても子どもが好きであったと伝わります。 別府では偉業を成し遂げた名士として知らぬ者のいない存在でしたが、そんな顔は微塵も見せず、町中で見かける子どもに気さくに声をかけ歌やお話しを聞かせていたそうです。
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“ピカピカのおじさん” というのも熊八自ら子どもたち相手に名乗っていた呼び名なのだとか・・
児童文化の進展に生涯を費やした 協力者 梅田凡平(自称ニコニコおじさん)と組んで、子ども向けの催しをよく開いていたと伝わっています。

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昭和10年3月 春の風が吹き始めようとする頃、熊八は71歳の生涯を閉じました。
熊八の遺灰は故郷 宇和島に帰り安らかな眠りについています。
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地獄を知り極楽を作った男は別府の地に揺るぎない足跡を残し、その想いは今を生きる人々にもしっかりと受け継がれているのです。

 


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