身を清めるも功徳の世を作るも裏表

前回 子供の頃の親の仕事について少し触れました。当時のことなので、銭湯はどこの町にでも必ず一軒や二軒はある極ありふれたものではありましたが、私たちの居た銭湯はそれなりに大きな施設であったように思います。

日が暮れにもなると多くの人が入れ替わり立ち替わり、風呂場に響く声で世間話を交わす人、紋々柄の背を晒してただ黙々と体を洗う人、黄色い声で騒ぐ子供を窘めながら髪を洗うお母さん。昼間は時間を持て余したお爺さん・・等々、まこと銭湯は地域の人たちが集い混じり合う交歓の場でもあったのでしょう・・。

 

体を清める場ですから、当然 清潔さを保たなければなりません。父がやっていたように、ボイラー炊きだけではなく日々の清掃・整理整頓。そして銭湯の経営者側からも状況に応じて補修や新規投資も必要です。

かくして町の銭湯は皆が親しむ明るくクリーンな癒しの場。・・となるわけですが・・。 前回で触れた男湯奥の小さな扉一枚の向こう、つまり私たち家族が住んでいる居住空間を含む、(いわゆる)銭湯の裏側となると中々そうもいきません。

汚れているわけではありませんが・・、ざっくり言うと何処かのコンビナートの一角のような雰囲気です。あれだけ必要なのかと思えるほど湯送の配管が、所狭しと這い回っています。 そして区画の中央にはボイラーに隣接して、数メートル直径の煙突の基底部が天井を貫いています。全体的に暗いです。総体 室温は高めです・・。

表からは明るくクリーンに佇んでいる町の銭湯も、その親しみやすさを維持するためには、裏側は汗と熱気と不断の努力によって支えられていたのでしょう・・。 何事も表裏両面があってはじめて成り立つもの・・というのも世の常なのかもしれませんね。

画像はイメージですが、潜り込むとこんな感じ・・。

 

さて、江戸時代からそれ以前、銭湯など身近に無かった時代や場所において、寺から施されていた慈善入浴「施浴」。恩恵にあずかった人々には代え難い衛生と憩いのひとときであったと思いますが・・。

この「施浴」のはじめ・・ともされる伝承が “光明皇后” による「千人風呂伝説」といわれています。 ”光明皇后” (701〜760年)イナバナ.コムでも二度ほど記事にさせていただいた “聖武天皇” の皇后。

当の記事でも触れたように、時は流行病や災害、そして叛乱事件と不穏な世相が世を覆った時期であり、不安定な勢力基盤も相まって数度の遷都を繰り返すなど、”聖武天皇” にあっては かなり憔悴した治世でもありました。

光明皇后は夫を支え続けるとともに、母親(橘三千代)譲りの熱心な仏教信望者であったことから、天皇とその治世にも大きく仏道功徳の恩恵を勧めていきます。 全国の国分寺制定や東大寺大仏の造立なども、皇后の勧めゆえともいわれています。

そして、その光明皇后が仏による啓示を受けて行ったのが「千人風呂」とされる慈善の行なのです・・。

光明皇后 画像©Wikipedia

 

『千人風呂』

「光明子」(後の光明皇后)は 覇権煩わしき当時の宮中にあって、15歳にして「首皇子」(おびとのおうじ・後の聖武天皇)に入内(輿入れ)します。

その6年後の神亀元年(724年)首皇子は無事 即位を果たし聖武天皇となり 光明子も皇夫人へ、そして皇后へと立后していきますが、そのような中でも政界は常に不安定であり、さらに即位の3年後生まれた基皇子が僅か1年程で夭折してしまったため、聖武天皇、光明皇后とも深い悲しみに閉ざされることとなってしまいます。

特に光明皇后はこの頃から、人の生きるべき道 自らが果たすべき行いに深く思いを馳せるようになり、母(橘三千代)の勧めもあって仏道への傾倒を深めてゆくこととなりました。

 

そんなある日のこと、皇后の夢枕に仏が立ち
「光明子よ 世を光で照らしたくば功徳の風呂を建て そこで千人の卑しき者の垢を拭うがよい・・」 と仰せになります。

これを神仏の啓示と知った皇后は 早速配下に命じて功徳風呂を建て、身分の貴賤なく民を呼び寄せ入浴を施しました。 さらに臣下の止めるのも意に介さず、自ら袖を捲り垢にまみれた人々の体を洗ったといいます。

そしてようやく九百九十九人の体を洗い 満願を果たそうとしたそのときです。

はたして千人目となった ひとりの老人は、見るからに薄汚れた貧相な出で立ちでありました。さらにその体には多くの瘡が浮き出ており重い病に罹っていることが伺われたのです。

誰の目にも触ることさえ憚られるような様子ではありましたが、あまつさえ その老人はこう言ったのでした。
「高貴なる皇后様に、この瘡から出る膿を吸い取っていただけたなら、きっと重き病も癒えましょう・・。」

これには さすがの皇后もたじろぎましたが、来る者に別け隔てなく施すべき功徳の行・・。
皇后は意を決して老人の願うままに その膿を吸い取ったのでした。

すると突然、皇后も周りを取り囲む者も 思わず目を覆わんばかりの光が老人の体から溢れ出し・・。

気がつけばそこに、神々しい輝きに包まれた “阿閦如来(あしゅくにょらい)” が、優しい微笑みを浮かべながら立っていたのでした・・。 皇后が望む大願のはじめは達せられたのでした。

この功徳のための風呂が、後の世の “施浴” の倣いとなったのだそうです・・。

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いわゆる “光明皇后による千人風呂伝承” ・・。
只、あくまで伝承であり 一般的に史実とは言い難いものです。

・・が、光明皇后が仏教に深く帰依していたのは事実であり、上記のように様々な仏教施設の建立に関与し、また古代国家としては極めて早期の慈善事業を実施していたのも史実のようです。 光明子とは光り輝く美しさから言われたものとされていますが、同時に世を照らす慈悲の灯りを指しているといわれるのも、その事績によるものではないでしょうか。

一方で、聖武天皇を蔑ろにし自らの天皇即位を狙っていたなど、光明皇后には不遜で権力欲に染まった人物であるという負の認識も長年にわたってあり続け、その評価は明暗分かれることろではあります。 しかし、憔悴した夫 聖武天皇による 突然かつ度重なる遷都にも終始 連れ添っていますし一面だけで推測できるものでもありません。

聖武天皇の体調不良が進み、また先帝である元正天皇の崩御の頃を境に、より大きく政務に携わっていったことから、宮廷における存在感がいやが上にも高まっていったことは否定できませんが・・。 実際問題、夫の力が薄れゆく中 残される妻として ひとりの女性として、権謀渦巻く宮中で立ち振る舞ってゆくには、相応の度量と実行力を推し進めてゆくほかなかったと言えるのかもしれませんね・・。

 

その人生の大半を藤原氏らによる覇権の最中で生き(自らも藤原氏出自)60年の生涯を歩み抜いた光明皇后、同い年であった聖武天皇とは幼少時 身近に育った幼馴染でもありました。
天平宝字4年(760年)崩御した皇后の陵(墓)は聖武天皇の隣に定められています・・。

何事も、美しく耳に聞こえの良いことだけで成せれば言うことはないのですが、そうはいかないのが人の世の難しいところ。 きれいに見える部分もあれば意外に思える部分もある。
昔の銭湯の維持運営に擬えるのも共々おこがましいですが・・、やはり 何事も表裏両面があってはじめて成り立つもの・・ということでしょうかね・・。

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