人の人たるその志は第九合唱の如く – 徳島県

前回ご案内した “全国で唯一電化路線のない街” の特殊事情とその風情。 そんな徳島県の鉄道史を物語る『鉄道写真展 -特急列車と機関車-』 有志の協力を得て 約60点余りの写真展示が行われるというマニア好みな内容となっていますが、開催される場所が鳴門市大麻町(おおあさちょう)にある『鳴門市ドイツ館』となっています。

鳴門市大麻町とドイツ・・ 一聴、繋がりが思いつかない二つの関係ですが、これには今からおよそ100年前、この地にあった とある施設に その端緒を見ることができます。

その施設とは “捕虜収容所”。 大正6年から9年(1917年~1920年)までの3年間、大麻町(当時の板野郡板東町)に「板東俘虜収容所」が運用されていたのです。

収容されていたのは主にドイツ軍兵士。大正3年から4年以上に渡って世を覆った 第一次世界大戦において囚われた捕虜が収監されていました。 大戦にあたって日本(当時・大日本帝國)は連合軍側(英・仏・露・伊・米等)として参戦、同盟国側(ドイツ他4カ国等)と戦い、主に黄海沿岸地域で戦勝を収めます。

当時のドイツ帝国及びオーストリア・ハンガリー帝国連合軍の捕虜数千人が一時的に囚縛されることとなりましたが、当初 想定していたよりも戦争が長引く見込みとなったため、政府は収容所設置を日本各地に進めます。「板東俘虜収容所」もそのひとつであり、当時 約1000人が収監されていたといいます・・。

 

捕虜収容所というと暗く陰惨なイメージがあり、また実際に人の歴史の中では そういった事実が現在をも含め 数え切れぬほどあるのですが、「板東俘虜収容所」では少しばかり様子が違ったようです・・。

板東俘虜収容所・所長の任に就いた 松江豊寿(まつえとよひさ、軍人・政治家)は、囚徒となったドイツ人たちに対して 敵国の捕虜としてではなく、一個の人間としてその人格を尊重した扱いをし、所内という制限の下ながら可能な限り自主的な活動を許したのだそうで・・。 これは収容所の高官や看守たちにも徹底されていたといいます。

板東俘虜収容所。当時の写真

捕虜というものは その身の安全・行く先を敵側に握られてしまうもの・・。 情報も豊かでない時代、見知らぬ国での虜囚を余儀なくされ絶望の淵に居た彼らでしたが、人道的な配慮の下で安堵の生活を送ることが出来たのです。

 

基本的に真面目で凝り性なドイツ人気質とでもいいましょうか。技能に秀でた彼らは様々な活動に取り組み、収容所の敷地内には運動施設や農園が設置され捕虜たちの自主的な利用が許されました。 パンの焼窯やウィスキーの精製所まで作られ運用されていたというのは現代的視点から見ても驚きの運用実態といえるでしょう。

只、こうした人権と自主に根ざした取り組みは 当時の軍上層部からは問題視されていたようで、収容所の方にも度重なる注意や圧力が掛かっていました・・。

しかし当の松江所長は それらを一向 意に介さず・・、それどころか、その方針をさらに進めて収容所の門戸を開き、捕虜たちと地域住民との交流まで積極的に図ったのだそうです。

当初、囚人たちとの接触を恐れていた板東の住民たちも、ドイツ人の真摯な振る舞いに次第に打ち解け、交流会や農作業などを通じて様々な触れ合いを深めていきました。 このことは地域の文化にも影響をもたらし、養鶏や栽培、建築など様々なドイツ式知識が広まったといいます。。

画像©『鳴門市ドイツ館』HP

捕虜たちは特に好きだった音楽・合唱の腕を磨き、ついにはベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」を、(アジアで初めてともいわれる)コンサートの形で披露するまでになったといいますから・・。これはもうドラマや映画のお話のごとき出来事ですよね・・。

松江豊寿がここまで彼らの人権を尊重した背景にはその生い立ちに根ざしているようです。

彼は福島県会津藩士の家系でありました。会津には幕末から明治にかけて “賊軍とされた” 悲しい歴史があるといわれています。 松江本人は明治5年の生まれですが、幼い頃から味わった敗戦の民の心情・・。 人の心を汲む良識と分別は、彼のこうした人生観の中で築かれたものなのでしょう。

 

1918年の末、大戦は一応の休戦をみましたが、その後も散発的な緊張・紛争状態は続き1919年6月のヴェルサイユ条約によってようやく終戦に至ったのです。(完全な終結は1923年7月のローザンヌ条約)

Traité de Lausanne 1923

1920年4月 終戦後の安定と、当時 世界を席巻したスペイン風邪流行の鎮静化をもって「板東俘虜収容所」はその役目を終え閉鎖・解散することとなりました。 捕虜たちは解放され帰国の途につく者、中には日本に残る者、次々と板東の地を去って行きましたが、彼らはこの収容所で過ごした日々を深く心に留め「彼(松江)ほど素晴らしい所長は 世界の何処にもいないだろう」と称えたといいます。捕虜代表を努めたクルト・ハインリヒ少将は松江所長に対し深い感謝の念を捧げるとともに愛用の杖を贈ったそうです。

さらに、敵国兵士の帰還という 普通なら喜ばしい事態であるのに関わらず、収容所閉鎖が決まった日には板東町内みな葬儀の日の如く落胆してしまったといいますから、如何にドイツ人捕虜たちと地元民のつながりが深くなっていたかが伺われますね。

収容所所長 退官の2年後、松江は昇進の上 予備役となり、その後は故郷若松市の市長を務めたと伝わります。 その100年後には同市に彼の記念碑が立てられ、献花祭に際してはドイツ連邦共和国のクリスティアン・ヴルフ元大統領も来賓しています・・。

 

『鳴門市ドイツ館』クリックでHPへ

『鳴門市ドイツ館』クリックでHPへ

先にドラマや映画のごとき・・と書きましたが、これだけ誇らしい事績がそのまま埋もれてゆくはずもありません。2006年「バルトの楽園」(バルトの “がくえん” )という映画になって公開されています。 主演・松江豊寿所長役に松平健。クルト・ハインリヒ ドイツ軍将校役にブルーノ・ガンツを配して、情感豊かに物語を描いています。

奇特な百年の事績を伝え徳島の歴史に根ざす『鳴門市ドイツ館』とともに、機会があればぜひ楽しんでみてください・・。

文中敬称略

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