てんてん手まりの行く先五月の祭 – 和歌山県

「テンテンてんまり テンてまり♪ テンテンてまりの手が逸れて・・♪」・・JASRACが怖いので これ以上書きませんがw。 西條八十・作詞、中山晋平・作曲による童謡『まりと殿様』(原題「毬と殿様」)の出だしの一節です。 今では古典的な童謡に含まれるかもしれませんが、ご存知の方も多いのではないでしょうか・・。

昭和4年、児童向け雑誌の出版社から “正月号にふさわしい歌を・・” との依頼により西條八十が作詞を手掛けたといわれます。当時の児童(特に女児)の遊びとして一般的だった “手まり” を題材に、正月といえば “まり” のような “みかん”、”みかん” といえば “紀州” と着想を広げて作られたものだそうです。

スマホだ、テレビゲームだと、子供でさえ何がしか屋内で過ごすことの多い現在、”手まり” をして遊ぶ子も少なくなってしまいましたが、昭和も50年代位までは公園や路地の其処此処でよく見かけたものです。

“まり” といっても大半はゴムボールといったものでしたが、”まり” がゴム製となったのは明治時代、それまでは弾力性のある芯に糸などを巻き付けて作られていました。 それは “まり” が、より効率よく作られ利用されるゴムボールに置き換えられていくと同時に、本来の遊具から飾り物や贈答品としての側面を強めていったことにもなります。

刺繍のように色とりどりの糸で紡がれ彩られた “手まり” は、今や一級の工芸美術品でもあるのです・・。

 

遊具や球技に用いていたものに装飾を施し、美術品の位置にまで高めたのは、およそ世界でも日本だけとも言われているそうですが、その日本国内において工芸 “手まり” の産地といえば、北は青森から南は沖縄まで各地にそれぞれの名産 “手まり” があるそうです。

が、本日はやはり紀州和歌山県からの話題と致しましょう。
西條八十も「紀州手まり」を念頭に歌の構想を練られたのでしょうし・・。

“紀州手まり” のはじめが いつのことだったか明確ではありませんが、おそらくは江戸時代の初期、 “五十五万五千石” とありますから徳川幕府による御三家 “紀州藩” が立てられた頃でありましょう。 ”お城に仕える女官たちが姫君のために作り始めたのが起こり“(和歌山市役所HP)と伝わるのだそうで・・。

五十五万五千石の紀州藩、(紀州徳川家による紀州藩)の初代藩主・徳川頼宣は家康の十男であり、家康からも特に目をかけられた後継者の一人でもありました。 紀州に入府したときは既に家康亡き後のことでしたが、幕藩体制確立のため新天地の安定と隆盛に力を注いだと伝わります。

この新規入府の際、頼宣について紀州に入ったのが附家老 “安藤直次(あんどう なおつぐ)” です。

 

その人生の大半を主君 徳川家康に捧げ、家康の腹心・懐刀ともいえた安藤直次。
55歳のとき、家康の頼みによって頼宣の附家老・後見役を拝します。終生を賭して徳川家に尽くした人物ともいえるでしょう。

徳川頼宣は聡明な人物ではありましたが、同時に年少の頃からかなりの武功派でもあり気性の激しい一面をも持っていました。父・家康からの薫陶に反して世が安寧の時代へ向かう齟齬もあったのかもしれません。 若い頃かなり粗暴な行状をなした際には、直次によって力で組み伏せられたといいます。

このとき頼宣は股の辺りに傷を負ってしまったようなのですが、後年 この傷を見た医者が治療を試みようとしたところ、「今日の自分があるのは、あのとき直次の諌めあったが所以である。この傷はその賜物なり」・・と、治療を断ったと伝わるほど頼宣も直次に全幅の信頼を寄せていたそうです。

徳川頼宣(左)と 安藤直次(右)画像©Wikipedia

紀州に入ってからは田辺の地に三万八千石の所領を得、頼宣を支えながらも紀伊国南部の治世に尽くした直次、このとき “紀州手まり” の技術を田辺に持ち込み普及を後押ししたため、当地には今に続く手まりの伝統が根付くことになりました。 西條八十による歌も直次から300年の時を繋いで生まれたのです。

別に “御殿手まり” とも呼ばれる “紀州手まり”、球体の中に色鮮やかな幾何学模様が広がる小宇宙のごとき美しさ。

実は八十の歌が作られた昭和初期には些か衰退していたのですが、昭和33年の和歌山城再建、そして昭和46年の和歌山国体(黒潮国体)などを契機に再認識を重ね、伝統工芸品として広く知られるところとなりました。八十の想いもようやく実を結んだといえるでしょうか・・。

お土産としてだけでなく、蒐集品としての価値も高い「紀州手まり」、お手に取る機会がありましたら是非その魅力に触れてみてください。

 

さて、そんな和歌山市で5月の12日(日)には「和歌祭(わかまつり)」が催されます。

和歌祭は江戸時代も初期 元和8年(1622年)の始まりとされますから徳川頼宣入府(元和5年)の3年後、まだ戦国時代の遺風が残っている頃でもありました。 そのため祭の行列には武者姿の株(組合)参加も見られる “時代行列” となっています。 2022年の祭のときには、テレビドラマ「暴れん坊将軍」で知られる “松平健” さんも “徳川吉宗” 役でゲスト参加されました。

市内南西部の和歌浦口、その和歌山(わかさん)山頂に立する「紀州東照宮」を本山として祭は興され和歌浦周辺に広がるのですが・・。

当日、神輿が担ぎ出され楼門から続く石段を降ります。宮そのものの標高は数十メートル程でしょうが、侍坂とも呼ばれるその石段の数は108段、そして傾斜が極めて急峻です。足腰に自信がないと参拝するのも一苦労・・。 多くの担ぎ手がいるとはいえ、そんな急な坂を神輿が降りてくる様は圧巻であるとともに冷や汗ものでもありましょう。

まだ寒い2月に行われる新宮市 神倉神社の御燈祭(おとうまつり)といい、急な坂階段を下る祭のスリリングさには独特なものがありますね・・。

 

元来、神君 家康公の遺徳を祀り、紀州徳川家の威光を天下に知らしめるため行われた祭ですが、それは同時に紀の国和歌山の隆盛につながり、早くから民衆総出の祭典となりました。 以降、400年にわたってその伝統は連綿と受け継がれています。

新緑鮮やかな5月の空に立ち並ぶ祭の幟と絢爛の行列、機会がありましたら是非その目でお確かめください・・。

紀州東照宮 楼門から和歌浦への眺め

PS:西條八十の「まりと殿様」について、陰惨な解釈の都市伝説の如き話がネット上などで まことしやかに紹介されたりしますが・・。 元ネタは「童謡の秘密」という2000年代に入って書かれた書物における “読み物として面白いかもしれない?” 程度の曲解であり本分では全くありません。歌詞全文にあって “手打ち” を思わせるような語句は一言たりともありません。歌詞全文はコチラから。

Amazon:『はじめて作る小さな手まり 木原小夜 (著)』

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