今般 記事にさせていただいた仏像・・と、その国における宗教観との関わりについて引き続きお話させていただきたいと思います。
前回記事の終盤で “同じ仏教国であっても観音・阿弥陀・薬師 仏の存在すらあまり見られない場所・・” と書きましたが・・。 それは何処かというと、主に “タイ・ミャンマー・スリランカ” といった東南アジアの国々です。
これらの国において仏教的・信仰的支柱といえば ほぼ “釈迦如来” 一択です。他の尊格を熱心に拝したり仏像として造像することはあまりありません。 彼の国における “仏” とは、歴史上実在した唯一の偉大な師である「ゴータマ・シッダールタ(お釈迦様)」その人だからです。
仏教の教えが根強いアジア地域の中でも、仏教の伝播とその宗教的文化圏において これらの国々は “上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)*” と呼ばれ、仏教の開祖である釈迦の教えや戒律を古い形のまま守り伝えようとする宗教観を主にしています。
* 過去 小乗仏教との名称もありましたが、あまり良い意味を持たないため現在は上座部仏教と呼ばれます。
大陸東部に行き渡り朝鮮半島から日本に伝わった “大乗仏教” が、在家(一般的な信者さん)の信仰による救済を主体としたものに対し、”上座部仏教” は出家者(僧侶)及び信仰者そのものの “悟り” と “解脱” への到達を重要視します。
お釈迦さま自身の生き方や瞑想・思想そのものがお手本であり(古代インド語であるパーリ語で釈迦の言を伝える “パーリ仏典” を拠り所とする)、自らの生き様を磨くことこそが信仰の本懐といえるでしょうか。
これは言い換えれば、釈迦が直接 修行し瞑想し説き得た “原始仏教” の姿を、2千数百年経った現代にあって厳格に守り続けている証でもあり、広大たる仏教世界において極めてシンプルかつ原初的な形ともいえます。
発祥の地であるインドを見晴らすように、海(ベンガル湾)を挟んでなお近い地域に根付いたことが、地形的に見ても分かるのではないでしょうか・・。(地図上、赤色の地域)
では日本と同じく “大乗仏教” として広まった中国大陸東部や朝鮮半島の仏像・仏教観はどうかというと・・。
仏教が伝播していく中でその地域ごとの宗教(道教や儒教)の影響を受けながらも、衆生救済(しゅじょうきゅうさい・全ての生の救済を旨とする)を本位としながら発展を続けました。
そもそもがインドから中国大陸へと伝わってゆく時期・地理的歴史的な背景から、新たな尊格が増えていったのも この流れの中なので、そのため日本と同じように釈迦如来以外の重要な尊格も少なくなく それぞれに尊ばれています。
しかし、大地域的な信仰となるためか、前編でご案内した “日本仏像三強” のようにはならず、観音信仰・観音菩薩像がかなり優勢な傾向にあるようです。
阿弥陀如来像や薬師如来像は一定数存在し尊重されてはいるものの、主流とはなり得ない比率といえましょうか。
やはり 観音菩薩信仰の大きさは突出したものであり、日本も含めてこれらの原初が古い時代の中国で醸成されたものと言えるのかもしれませんね。
ひとくちに観音像といっても その像容にも違いがあるようで、中国では「白衣観音」「水月観音」など女性的表現が多く、対して朝鮮では男性的な造形、チベット仏教では千手観音・十一面観音 など造形に意匠を凝らしたものが多いのだそうです・・。
また、少し変わったところでは中国南東の一部や中華民国(台湾)における “弥勒菩薩” 信仰が注目に値するでしょうか。
果てしなき未来に降臨し世の全てを救済するといわれる未来仏 “弥勒菩薩” ですが・・。
これらの地域における弥勒菩薩は日本などで知られるスマートで静謐な造形とは少々・・というか、かなり異なります。 でっぷりしたお腹を抱えて・・何処かで見たような姿・・。
それもそのはず、この地でいわれる弥勒菩薩はいわゆる “布袋尊” のことであり、布袋さまが “弥勒菩薩の化身(弥勒下生)” として習合・認知されているがゆえの “弥勒菩薩” 信仰なのです。
民間信仰であり、それは地域の仏教文化を代表するほどではないものの、在地の人々にとって布袋様(弥勒菩薩)は “招福の神” であると同時に “繁盛の神” であり “子どもの守り神” でもあります。
正式・正確な弥勒信仰ではないにしても、当地の人々にはかけがえのない願いと救済の光なのでしょう。 50数億年の未来に顕現する如来よりも、今日の暮らしの傍らで安寧と希望をもたらす神であり続けるのです。
日本も世界の多くの国々もその地域と風土、歴史に合わせた形で信仰の器は醸成されてゆくのでしょう。
さてさて、ようやくここで当初 題材と考えていた、神奈川県川崎市にある古刹、天台宗「威徳山 影向寺(いとくさん ようごうじ)」に伝わる伝承をご案内させていただきます。
最終部分の付け足しのような扱いでまことに恐縮ですが、お楽しみいただければ幸いです・・。
「影向石と乳銀杏」(ようごういし と ちちいちょう)
天平の中ほどの頃
聖武天皇の后 光明皇后が重い病に罹られたとき
天皇の夢枕に一人の高僧が立たれ
「武蔵国橘の里に霊地あり そこに世にも不思議な霊石あり」
「その地に薬師如来を安置せよ さすれば皇后の病は癒されよう」
とお告げが下されたという
天皇は当時その名を知られた行基を召し 武蔵のその霊地に寺院建立と薬師像の安置を頼んだ
行基は長旅を重ね橘の里の野川台に霊石を探し
天平一二年四月 ここに寺を建立した
神仏が示したという謂れをもって影向寺と名付け薬師像を納めると
光明皇后の病はたちどころに治ったそうな
その影向寺も星霜過ぎるうちに荒廃してしもうた
窮状を聞いた文徳天皇は天安二年 慈覚大師に再建を命じ
本尊の新しき薬師如来を京から運ばせた
大師一行は薬師像を背負い駿河国青島に辿り着き休息をとった
さて一休みしてから如来像を入れた笈を再び背負うと妙に軽い
驚いて開いてみると本尊の姿はなかった
(笈(おい)僧侶らが背負う箱型のかご)
驚いた一行は山中といわず谷といわず駆け巡り探し回ったが 何としても見つけることができなかった
慈覚大師を囲み頭を抱えていると東の方から早馬がとんできた
「ご安心くだされ! 御本尊はひと足先に影向寺へ来られ霊石の上に立っておられます」 と言う
何とも不思議なこと と悩ましながらも一行は胸をなでおろし
箱根の山を越え相模をぬけて武蔵国へ入っていったそうな
また 万治年間に影向寺本堂が火災に遭うたときも
薬師如来は自ら本堂を抜け出てこの石の上に立っておられたという
この影向石は インドの釈迦が「有縁の地に留まるべし」と投げられた石という伝説もあるが 石の中ほどが凹んでいて いつも水を湛えておった
この水は「霊水」として目の薬になるといわれ 目の病に悩む者がこの水で目を洗うと治ったという
影向寺の本堂には今もそのご利益にあずかった人が奉納した「め」の絵馬が奉納されている
影向寺境内の右手には樹齢六百年という大銀杏がある
これは乳銀杏ともいわれている
昔 ここから一里ほど南の小倉という村に
子供は産んだが乳が出なくて困っていた母親がいた
思い悩んだ母親が小倉池に身を投じようとしたとき
一つの玉が池に浮かび この玉を捕まえよというお告げがあった
母親は必死になってその玉を追っていくと いつの間にか影向寺の銀杏のたもとに辿り着き そこで乳銀杏の徳を授かった
それから 乳不足の母親たちがここに願掛けをするようになり
そのご利益にあずかった人たちが奉納した絵馬も残っている・・
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