想いを取り持つ離宮名水の郷 – 大阪・京都

京都府の南西部、乙訓郡(おとくにぐん)大山崎町にある標高270mの山が “天王山” です。

歴史に聡い方であれば天正10年、本能寺の変に続いて引き起こり羽柴秀吉と明智光秀の雌雄を決した “山崎の戦い” の決戦地・・を思い出されるかもしれませんね。

大阪府の北東端、高槻市よりもさらに北東にある三島郡に相対し、国境(くにざかい)をもって摂津国(大阪)と山城国(京都)を分かつ関所の役割を果たしてきました。

人や物の移動形態が大きく様変わりした近現代にあっても この天王山 “大山崎” 近辺は名神高速道路においての常渋滞区間であったほど。京滋バイパスが整備されてようやく一定の改善が成されました。 自然に遮られた目に見えぬ障壁は、最近の交通システムに対しても大きな作用を及ぼしていたのです。

 

その “大山崎” を通り掛かったときに思い出すのが、酒造・飲料品メーカー「サントリー」の蒸溜所が当地にある・・という話。
正確には県境の西・大阪側、三島郡島本町 “山崎” に所在します。

大正時代も終盤、国内初の本格ウイスキー製造を目指した鳥井信治郎(寿屋・サントリー創業者)が、後に「ニッカウヰスキー」を独立・創業する竹鶴政孝の協力を得て、清涼深緑の地所に建設したのがサントリー『山崎蒸溜所』です。

スコッチウイスキー製造を標榜していた竹鶴の意思により、当初 寒冷な北海道に蒸溜所を建てることを献策されていましたが、あまりにも遠すぎるため当時の物流コストや破損リスクに見合わず・・。

北の国にも匹敵しうる自然と良質の水に恵まれた当地が選ばれました。

山崎は往古から知られた名水の産地であり、それは桃山時代にあって彼の千利休がこの地の湧水に惚れ込み “山崎屋敷” という茶室をこしらえたほど。 良いウイスキー造りに良い水は必須の条件であると考えていた鳥居にとって、山崎は無二の最適地だったのです。


結果的にその決断は功を奏し、サントリーの歴史的拠点施設として一世紀が経った現在も稼働しています。 ウイスキー好きなら垂涎の最高級ラベル「山崎」も当地の名を冠したものとして知られたところでしょう・・。

 

そしてもう一方、京都府乙訓郡側、”大山崎” にもアルコール飲料に縁のある施設が存在しています。

その名は『アサヒグループ大山崎山荘美術館』。 グループ名でお分かりのように、国内のビールメーカーとして大きなシェアを誇る “アサヒビール株式会社” を主体とした “アサヒグループ芸術文化財団” によって管理運営されています。

上記の『山崎蒸溜所』が純然たる製造所であり、ウイスキーのテイスティング(試飲・要予約)などもできる施設であるのに対し、当所は名のとおり閑静な森に抱かれた詩情豊かな洋館造りの美術館。

収蔵されている美術品の大半は “朝日麦酒” の初代社長を務めた “山本為三郎” が遺した所蔵品の寄贈によって構成されています。

“ホテル王” “ビール王” などと呼ばれ、関西財界人として著名だった山本は芸術作品愛好家としても知られていましたが、大正時代末期に興隆した “民藝運動” に共鳴し、これを篤く支援・蒐集していました。

有名アーティストではなく、在野にあって無名ながらも技能・幽趣に富んだ芸術家たちによる滋味溢れる作品群。 静寂の美術館にこれほど相応しいコレクションはないのではないでしょうか?

とはいえ、この大山崎山荘がはじめから山本による美術館だったかというと・・、そうではなかったようです・・。

 

大山崎山荘の創建者であり所有者であった人物の名は加賀正太郎。

上述のニッカウヰスキーの前身たる “大日本果汁” 会長も務めた実業家でしたが、そうした縁から山本爲三郎とも厚い親交がありました。

欧米文化に追い付け追い越せの気運に満ちていた時代。 同じ関西圏で新進の商業隆盛に腕を奮っていた二人は、仕事上での付き合いもさることながら、個人的な趣味から文化振興にまで嗜好の合う親密な間柄でした。 美術家・柳宗悦が進めていた民藝運動にも二人して共感を分け合っていたといわれます。

因みにサントリー創業者の鳥井信治郎も彼らと深い交流がありました。

実業家であると同時に多才な趣味人でもあり、アルプス・ユングフラウの初登頂を日本人として初めて成し遂げるほどの行動派でもありましたが、昭和29年 病をもってその生涯を終えるところとなります。

死を前にして加賀は自らが保有していた(大日本果汁・ニッカ)の株式を散逸を防ぐために山本に譲り託したといいます。

また、その山本もサントリーがビール製造に乗り出す際には、競合相手であるにも関わらず販売ルートまで貸し出すような大きな協力をしたそうで・・。

同時代の関西経済人は競い合いながらも、互いに親しみ助け合う切磋琢磨の仲であり戦友のような感覚であったのでしょうか。

 

加賀正太郎が他界して後、大山崎の山荘は主無き館となってしまいました。

一時は高級料亭が入るなど知る人ぞ知る隠れ処として続いていましたが それも長くは続かず、やがて昭和も終盤に至る頃には開発業者の所有するところとなっていました。 盟友山本爲三郎も既になく、この山荘も寄る辺なき物件となっていたのでしょう。

そしてバブル期を象徴するかのごとき話題が山崎の町を走り抜けました。 業者によって山荘は解体、跡地に大型マンションを建設するという計画が浮上したのです。

古い時代のものとはいえ、大山崎の時を見守ってきた貴重な洋館と自然が失われることを憂いた地元住民や行政は、激しい保存運動を展開しました。

そこで京都府や大山崎町から相談を受けたのが、かつての家主(加賀)と最も縁が深く、関西の文化を支えてきたアサヒビールでした。

1990年代初頭、アサヒビールは「この美しい遺産を守り社会に還元する」という理念の下、行政と協力する形でこの土地と建物の買収を決定。

大山崎山荘を再生するに最も相応しい形とは何かを考えたとき、やはり縁の元となった山本爲三郎の遺産である多数の民藝芸術作品を寄贈し、美術館として再出発させることが最善と考えたのです。

“個人所有の資産ではなく、広く衆目に資することのできる芸術作品として・・”。そう願っていた山本の想いを形とするのに、これほど適した場所は他になかったのではないでしょうか・・。

「アサヒグループ大山崎山荘美術館」では本年(2026年)、開館30周年の記念トピックを運用中です。 開館30周年記念サイト

 

山崎は県境を境に東に “大山崎”、西に “山崎” と両県に分かたれた形。 まるで元々はひとつであった郷が県境設定時に裂かれてしまったようにも見えますが、実際にはこの境は律令制の時代から続くものであったようです。

冒頭でも触れましたように当地は “関” の地でもあり “関大明神社” も置かれていた、都の東の玄関口(塞)でもありました。 そしてそれだけに人や物が行き来する重要拠点でもあり、大きく賑わった “自立型都市” でもあったのです。

そして、流れる人や物に欠かせず極めて大きな恩恵をもたらすものが桂川、宇治川、木津川、それが合流した淀川それぞれの水運。 そして天王山近縁を源流とする水無瀬川の水。

平安の終焉から鎌倉時代のはじめに波乱の人生を送った後鳥羽天皇も、その森の佇まいと美味し水をことさら好んでいたそうで、わざわざ当地に離宮(水無瀬殿下御所)を定め親しく通われていたと伝わります。

後に遠国にて生涯を閉じられた天皇を偲び祀るために創建された社は “水無瀬宮” として山崎の水を護り続け、『水無瀬神宮(みなせじんぐう)』と改名されてからも境内の “離宮の水” は、清涼たる恵みを途切れることなく湛え続けています。

サントリー鳥井信治郎、アサヒビール山本爲三郎、ニッカウヰスキー加賀正太郎・・。利休が愛し、数多の縁故者たちを取り持った “山崎の水” は、今日も人の縁を結び続けているのかもしれません・・。

サントリー『山崎蒸溜所』 公式サイト

『アサヒグループ大山崎山荘美術館』 公式サイト

『水無瀬神宮』 公式サイト *現在『招福の風』風鈴と風車の催し開催中

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