“芝居小屋”・・というと時代を感じますね。というか昭和の時代でもこの言葉が使われていたのは、せいぜい戦後位までではないでしょうか? 私が子供の頃でも既に劇場や映画館という呼び名が定着していました。
江戸時代に一般的となった芝居小屋は、主に歌舞伎を観劇する施設として人々に愛されました。 小屋という呼称から小規模のものを思い浮かべますが、江戸や大坂(大阪)・京など都市部では茶屋なども併設されシステマチックで大規模なものも少なくありませんでした。
明治時代以降、近代化の中で演劇の多様化、映画の導入などを経て機能の細分化・合理化・整備がなされ、現在の “劇場” へと推移していきます。 庶民が集って楽しむ娯楽形態のピークだったのかもしれませんね。
今年 卒寿を迎えた私の母によれば、若い頃(昭和30年代前半)の楽しみは兎にも角にも “映画” であったそうです。 針子(洋裁師)の仕事をしながら休日に友人と行く映画館が欠かせない息抜きだったとのこと。(プレスリーがご贔屓だったそうですが・・)
和洋問わず映画全盛の時代でしたが、40年代も半ばになる頃にはテレビの普及に伴い、映画産業の趨勢にも翳りが見えはじめました。
そしてインターネットで映画はおろか、あらゆる娯楽作品が手軽に鑑賞できるようになった現在。 気楽かつ合理的である反面 “観劇のためのお出掛け” は遠のき、リアルな体験や人との共感も伴い難いものへと変わってしまったようにも思えます。
あらゆる文化は留まるところを知らず移ろい行くものなのでしょう・・。
まだ演劇・興行華やかなりし時代、徳島県美馬市にあって人々の歓声と喜びを集める “場所” が産声を上げました。
時は昭和の初頭、津々浦々にあった素人芝居の小屋にも近代化の波が押し寄せていた頃。 美馬・脇町(当時)に藤中富三氏・清水太平氏らを中心として、本格的な劇場建設が発起されたのです。
四国の内陸部ながら吉野川流域に位置する脇町(わきまち)は、江戸時代から “藍(あい・染色の原料植物)” と “繭(絹原料)” の生産で発展した町でした。
立派な商家や町家が建ち並び、その特徴的な屋根瓦の姿から「うだつの町並み」(うだつの上がる白壁の町)として聞かれたことのある方も多いのではないでしょうか。
多くの人や物が行き交う栄えし場所に、享楽の中心たる劇場を起ち上げることは町の悲願でもあったのかもしれません。事業家、森幸雄氏や吉川長次氏の協力を得て、昭和9年『脇町劇場』の落成に至ったのです。
木造による建築ながら間口15m・奥行き27mの総二階建て造り。 明治後期から続く和洋折衷の様式を色濃く残した佇まい・・。
実は四国にはこの他にも愛媛県喜多郡の “内子座”、香川県琴平町の “金丸座” という “古の芝居小屋” が現存・開放されており、江戸時代の風情に満ちているのですが・・。 (全く個人的な嗜好で恐縮ですが)中庸な近代化時期の香りを今に伝えてくれる『脇町劇場』の方に、より魅力を感じるのです。
地方の劇場と侮るなかれ、歌舞伎・演劇の劇場として舞台へ続く花道は言うに及ばず、二階座敷、奈落から回転舞台まで備えた本格的なものであり、その大半は現在も復元保存されています。
娯楽文化の推移に従い、戦後は歌謡ショーのホールや映画館としても機能したそうです。 戦禍の時代を挟みながらも開館から半世紀を超えて、訪れる人々の笑いと涙、興奮と感動を見守ってきたのでしょう・・。
上でも述べましたように時代は移り変わってゆくもの。 テレビに継いで家庭用ビデオ機器が普及したことで、昭和も終盤期には全国数多の映画館が終焉の時を迎えました。
大規模な施設や最新デジタル映写機の導入ができない中小規模の劇場は、軒並み閉館の道を辿ったのです。
『脇町劇場』も多分に漏れず 経営の悪化と設備の老朽化から平成7年(1995年)をもって閉館。建物の解体が決まりました。
しかし幸運の女神が微笑んだのか、舞台に宿る魂の灯が幸運を引き寄せたのか、まるで映画のような奇跡がここで起こります。
巨匠 山田洋次監督、地方の斜陽映画館を舞台に人間ドラマが繰り広げられる映画「虹をつかむ男(西田敏行主演)」の撮影ロケに『脇町劇場』が使用されたのです。
このトピックで映画館も町も一躍脚光を浴びたことから、町内で『脇町劇場』への文化的価値の再考がなされ、平成10年(1998年)には美馬市指定有形文化財指定と再整備プロジェクトが可決。
翌11年には ついに創業時の姿に修復が完了。「虹をつかむ男」における舞台となった「オデオン座」の名を冠して『脇町劇場 / オデオン座』として一般に向けて公開される運びとなりました。
現在も定期的に演劇や映画の上映、また市民によるレクリエーションホールとして運営を続けています。 60年を賭して歩み続けてきた劇場は、次の60年100年を目指して新たな灯を灯し続けていくのでしょう・・。
ご案内にもありましたように、当地は「うだつの町並み(脇町南町)」でも知られた町。
残された古の建築物も多く「旧長岡家住宅」「旧 重清北小学校 / 交流促進簡易宿泊施設 山人の里」などと併せて、江戸時代から昭和へと連綿と続く趣きを訪ねて歩くには絶好のロケーションです。
初夏の歴史散策の候補地に加えてみられては如何でしょうか・・。