お花見のシーズンも過ぎ、世間も日々の慌ただしさへと戻っています。
遠からず初夏の兆しも見えようかという今日この頃・・に「雪男」の文字。 さしたる理由はありません。また雪男が今話のメインというわけでもありません。3月半ばに書きはじめたものの途中で書きそびれ、今日までずれ込んだだけです。何卒ご容赦のほどを・・。
(^_^;)
・・それは人の如き五体を成しているものの、いささか背は高く筋骨もたくましく見えた。
しかしその外見は、およそ全身をくまなく毛で覆われ逞しき猿のようでもあったとも。さらに赤味がかった頭髪が背の後ろの方までも伸びておったとも伝わる・・。
・・未だ あらゆる遠出は自らの足で賄っておった時代。 越後の反物問屋が急ぎの荷を納めることとなった。
山のような白縮を背負い、使用人の竹助は山を越えて先方へと向かう。
峠を越す頃には日も高く上がり、一旦腰を落ち着けて昼飯でも・・と思ったときじゃった。
ふと気配を感じて振り返ると、茂みの中から現れたのは全身毛むくじゃらの大男。
腰を抜かさんばかりに驚いた竹助だったが、大男は竹助を襲う素振りも見せず、只、竹助の手に持つ握り飯ばかりをじっと見つめておる・・。
竹助が恐る恐る握り飯のひとつを大男に差し出すと、大男はそれを美味そうに食べたと。
ほっと胸を撫で下ろした竹助。自分も残りの握り飯を食うと、これ以上 妙な成り行きとならぬ間にと腰を上げて先を急ごうとした。
ところが 毛むくじゃらの大男、大荷物をひょいと横から取り担ぐと竹助に道の先を指し示す。そして訥々と歩いて行くではないか。
竹助にもろうた握り飯への礼のつもりだったのだろうか?
山を越え、道が開けるところまで来ると大男は荷を下ろし、何処かへと消え去ったという・・。
これは江戸時代後期、『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)という書物に載せられた越後国伝承の一遍です。(意訳)
著者は越後塩沢(現在の新潟県南魚沼市)生まれの “鈴木牧之” 。 “まきゆき” かと思ったら “ぼくし”。 “すずき ぼくし” と読むのだとか。(牧之は号、本名は儀三治)
生家は裕福な商家でしたが文人と交流のあった父・恒右衛門の影響もあり、牧之も幼少時より文芸への興味を育んでいたのかもしれません。
受け継いだものは教養のみならず 号である牧之も、父が名乗っていた俳号 “牧水(ぼくすい)” に韻を踏んで号したものといわれています。
商売に努めながらも父子揃っての文人志向。 冬場には雪に閉ざされる暮らしの中で、まだ見ぬ世界の知識が散りばめられた書籍や絵画との触れ合いは、少年の心を沸き立たせていたに違いありません。
牧之が19歳の折、商いで江戸に上りました。実家の取り扱い品である縮反物を売り捌くために商談を交わす中で彼を驚かせたのが、江戸の人々が越後の雪深さや雪に囲まれた暮らしを何一つ知らないことでした。
現代のようにあらゆる情報が横溢する社会と違い、知識も限られた時代ならば仕方のないことでもありますが、自分の生い立ちと不可分でもあった雪国の事情を誰も知らないという事実は、牧之にとって一種のカルチャーショックでもあったのでしょう。
“雪国の暮らしや文化を書籍で人々に知ってもらう”。それは かねてから文筆に想いを募らせていた牧之が、大きな目標を得た瞬間でもあったのかもしれません。
されど 通人とはいえ、実際に大衆に開く書を著すのは初めての試み。通り一遍の知識や構想だけで書けるものではありません。
牧之は帰郷すると、越後全般の風土に因んだ伝聞を蒐集し再確認。論題ごとに分類し整理し、他国の人々に分かりやすく興味をもって読んでもらえる書籍作りに取り組みました。
普通、こういった良家の跡継ぎが道楽事に熱を上げた場合、本業を放り出しての傾倒となることも少なくないのですが、牧之の場合は立派なもので、家業は家業として充分にこなした上での熱中であったようです。
どころか、相当の商才をも持ち合わせていたようで、牧之の代で家業の財を倍増したとも伝えられています。 仕事にも趣味にも人一倍 精を出す・・。 うらやましくも見習うべき姿勢です・・。
数年の歳月をかけて結実した著作が『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)。先にも述べたように越後・雪国の暮らし・文化を、文章と詳細な挿絵で著した事典的書籍です。 現代インターネット風に言うなら「SnowPedia」とでもいったところでしょうか・・。
牧之は文人的道楽者であったと同時に、几帳面な性格でもあったようで、『北越雪譜』の内容もかなり精緻なものとなっています。
何しろ初巻のはじめから “雪、霙、雹などの出来方と性質” が詳細に描かれているのですから・・。
ある意味「そこからかい!」と思えるほどキッチリしていますねw。
只、この『北越雪譜』。 出版まではかなり苦労したようです。
父の代からの伝手や、江戸への出向で知己を得た文人を頼りに出版の手立てを依頼しますが、これが中々上手くいきません。
『北越雪譜』を一見した彼らは、文人ならではの見識で当書の価値を見抜き牧之に協力的でありましたが、出版社でもある版元が受けるのを渋りました。
何故なら当時 一般向けの本といえば軍記やお伽噺、情話や滑稽ものなど、いわゆる小説的な読み物(草双紙)が主流。ある意味 学術的ともいえる『北越雪譜』のような本が、どれだけ売れるものか全く予想できなかったのです。
思えば、マーケット出版やインターネットでの電子出版など、数多の出版手段がある現代ですが、ほんの30〜40年程前まで自費出版のハードルはまだまだ高いものでした。 無名の作家や画家が出版社に中々認められず苦労するのは ありがちな話でもありました。
ましてや江戸時代、知られた作家や絵師でもなく、また本の内容も前代未聞のものともなれば、版元が首を縦に振らないのも当然だったのかもしれません・・。
とはいえ、出版し本とならなければ如何に多くを書き残してもそれは個人の自己満足。北国の暮らしや文化を世に知らしめる糧とはなりません。
はてさて、牧之の想いは果たされるのでしょうか・・。