春を言祝ぐ遠江国の十二の舞 – 静岡県

今から約1500年の昔(古墳時代)、第29代天皇として即位されたのが “欽明天皇(きんめいてんのう)” でした。

現代の日本は(一般的に)凡そ神道と仏教に鎮まる国ということができるでしょうが、当時はまだ神道一色の国柄であり、欽明天皇の御代に仏教が伝来したといわれています。

当初、仏教の教えに感銘を受けた天皇でしたが、この国に布教を許すか否か廟議に掛けたところ意見は二分。以後 百年近く臣下氏族間の勢力抗争も相まって、難しい舵取りを求められる時代でもあったようです。

結果的に神道と仏教は並存することになり、・・どころか神仏習合・本地垂迹などの混交文化を生むことになるのですから、それもまた日本ならではの応用性・国民性といったところでしょうか。

 

この欽明天皇の時代、都(当時は奈良県桜井市)から遠く離れた遠江国(静岡県西部)に創建された二基の神社があります。

一社は『小國神社』(おくにじんじゃ)
静岡県周智郡森町に鎮座する社であり、古より朝廷はもとより東海道一帯の武家筋からも尊崇篤き社であったと伝わります。

甲斐の武将 武田信玄が駿河・遠江に侵攻の駒を進めたとき、徳川家康は当社において戦勝祈願をし神霊を遷すと、敵軍足止めのため一旦社殿を焼き払いました。

その後、信玄の逝去をもって武田軍を退けると社を再建され、江戸時代に至っては歴年に渡り幕府の篤い奉加を受けてきました。明治初期の火災によって古殿の多くを失いましたが、4年後に再建を果たし現在に古の神威を伝えています。

近接する本宮山に顕現した大己貴命を主祭神と奉じながら、境内に七十三の神を祀る摂社を擁し、遠江国の一宮として永く衆生の崇敬を集めてきました。 神域には古代杉が生い茂る30万坪の森もあり太古の風情が息づいています・・。

 

もう一社が『天宮神社』(あめのみやじんじゃ)
同じく周智郡森町、小國神社の東方5km程に鎮座、小國神社の座地住所が一宮、当社座地は天宮となっています。

こちらも創建は欽明天皇の御代と伝えられ、その創始は小碓命(ヤマトタケル)の末裔一族が大君の遺趾を求めて この地にたどり着き、筑紫国から宗像三女神の神霊を勧請し祀ったことに始まるのだそう。

画像©「天宮神社」HP

宗像大社より分枝され根付いたと伝わる樹齢1000年樹高18メートルの “ナギ” が立ち、境内の傍らには春には桜で賑わう太田川が流れています。

主祭神、宗像三女神は “道主貴(ミチヌシノムチ)” ともされ、海路・交通のみならず あらゆる縁を結ぶ “道” の最上の神ともいわれ、福徳・知徳・縁結び そして長寿に神徳高き社として崇められてきました。

 

この「小國神社」「天宮神社」の二社を通じて、春爛漫の時節に執り行われる大切な舞神事が『十二段舞楽』です。
「小國神社」では例年4月の18日に一番近い土曜・日曜、「天宮神社」では4月の第一土曜・日曜を目処に執り行われます。

奈良時代さえまだ明けやらぬ頃、当地に下向し神官に就いた勅使(一説に藤原綾足)が、都の祭祀に倣って十二の舞を奉納したことが始まりとされる この神楽。 時に訪れる戦乱に溝を刻みながらも千年を遥かに越えて、古の風雅を今に伝えています。

天神地祇に向けての奉祝、菩薩顕現の説話、極楽浄土の表現、魔物や神仏、獅子を迎えて演じられる法話・伝承など、十二の演目を稚児や大人・神職による舞で段々に披露されていく様子は、当地独自の祭祀といえるでしょうか。

元来の都の舞に当地の土着的嗜好も織り込まれているともされ、また両社それぞれの舞は、小國神社のそれが “赤を基調とした快活で男性的な舞”、対して天宮神社は “青を基調とした優雅で女性的な舞” ともいわれています。

小國・天宮各々の「十二段舞楽」はそれぞれに独自を保ちながら、二社一対の大例祭として永続しているのでしょう。

 

またもう一基、同じ森町の『山名神社』も7月中旬に八段による舞楽(山名神社天王祭舞楽)が奉納されます。

これら小國・天宮・山名 三社の奉納舞楽を総じて「遠江森町の舞楽(とおとうみもりまちのぶがく)」として重要無形民俗文化財にも指定された往古の芸能神事。 そこには往古の都に著を持ちながらも、遠江に根付き育った土着の歓びや祈りが満ちています。

1300年の歴史に培われた典雅の舞、一度ご体験ください・・。

『小國神社』公式サイト
『天宮神社』公式サイト
『山名神社』文化遺産オンライン

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