三重県南部に “東紀州” と呼ばれる地域があります。 今では行政や気象などの取り扱いや住民を含む一部の使用を除いて、それほど頻出する言葉ではありませんが、この地域名はその名のとおり古の三重と和歌山のつながりを示す名称でもあります。
古代律令制において “伊賀国” “伊勢国” “志摩国” そして “熊野国” の4国が集っていた現在の三重県地域。 この “熊野国” が三重県 “東紀州” と和歌山県南部 “牟婁(むろ)” を併せた凡その領域であり、神坐し修験に根差した国でもありました。
現在の和歌山県側に西牟婁・東牟婁、三重県側に北牟婁・南牟婁の領区を構え、江戸時代には統括して “紀伊国” に含まれたこともあったことが、後の三重県に “東紀州” の名残りを留めたのでしょう。
かように、和歌山と三重の境に位置して両地域の文化を含有しながら、熊野信仰の余韻を湛えた風土には、今も其処かしこに古代神厳の佇まいが息づいているようで・・。
季節の標でもある春の節分 2月2日(2025年)。かつての南牟婁郡、その名も熊野市(三重県)有馬町にて『花窟神社(花の窟神社・はなのいわやじんじゃ)』の祭事「御縄掛け神事」が執り行われます。
高さ45m(15階建てのビル程)にも及ぶ巨大な窟(岩山)の頂から、眼前に熊野灘を見晴らす七里御浜の海岸まで約170mの藁縄を、氏子総出で綯い張り渡すという妙趣な神事。 一説に神事として用いる縄の長さとしては日本一ともいわれています。
著名な社が立ち並ぶ日本の神社史において花窟神社は顧みられる機会の少ない社ですが・・。 社殿を持たず巨岩の窟(岩屋)自体を御神体として奉じる姿は、奈良県桜井市の大神神社と同じく自然信仰を基とした古代宗教の昇華であり、その創建さえ不詳なほど古に届くものなのでしょう。(一説には1300年とも)
実際に花窟神社が正式な社格を定められたのは明治時代であり、地元において親しまれてきた社は、むしろ埋葬地としての尊格であったといいます。
誰の埋葬地なのでしょうか? それこそが花窟神社の御祭神の一柱 “伊弉冊尊(イザナミノミコト)” です。 並び祀られる “軻遇突智尊(カグヅチノミコト)” と合わせれば その由緒も明白、火の神を産み落とし時に遭われた身罷りによるもの。
“熊野の有馬” は伊弉冊尊の没地であり、平安時代に生き熊野にも縁ある “増基法師” が、周辺に咲く季節の花で飾り祀ったのが花窟神社の創始ともされており、後に地元の民によって引き継がれたが由緒ともいえましょう。
一説に花窟神社の西に離れた “産田神社” がその葬地であり、花窟神社は軻遇突智尊の陵であるという伝もあるものの(花窟 = カグヅチの転訛の説)、祭事の象徴・御神体である窟の窪みを伊弉冊尊の御陵とする由緒は健在で、今も白石敷の遙拝所を目にすることができます。
窟の御陵穴 “ホト穴” は女性(女神)の御印であり窟自体は “陰石” とされ、県境を跨いで坐す新宮市 “神倉神社” の “ゴトビキ岩(陽石)” に相対するものともいわれているそうです。
熊野の地に点在する聖地は 各々別個に神威を表しながらも、それぞれが普遍的な結び付きを交わしながら、遠大な霊場を形成している一例といえるでしょうか・・。
「御縄掛け神事」に用いる縄の用意は祭事の一週間前から始まります。 氏子を中心に集まった多くの有志によって縄が綯われますが、単に乾かせた藁を綯うだけの単純な作業ではない模様。
藁の長さを揃え、湿り気を与え木槌で打ってしなやかさを出し、適度な繊維質が見えたところで一本一本手編みで綯ってゆく。親指ほどの縄を綯い上げたら、それを7本さらに綯って本縄に仕上げていきます。
170mもの長さですから御縄自体の重さも相当にあり、万が一にも切れたりすると験にも関わりますので十二分にも丈夫に編み上げなければなりません。 同時に御縄から下げる “三旒の幡(みながれのはた)” も作られ用意は完了です。
(ビデオ短編)
当日は神職とともに、”上り子” と呼ばれる窟天頂部で役目を担う者(6名)、氏子らが境内で御祓いを済ませた後、窟の頂上と直下に分かれ神事の始まりに臨みます。
窟天頂部から引き綱を降ろし、直下で待つ御縄の端に結び付けると合図とともに引き上げが始まり、やがて頂上に達した御縄は樫の木に頑強に結わえられます。
一方、引き上げが始まった頃から徐々に七里御浜前まで引っ張られた御縄は、天頂部の結わえの合図を確認すると、横切る国道42号線を一時的に停めて一気に浜辺へと引き出されます。 氏子を中心に数多の一般参加者も心を一つにして浜の先を目指しますが、ここで一旦方向の調整が行われます。
往古ならともかく車も走る現代、車道に干渉があってはなりません。これを回避するために浜の林に立てられた柱の先に御縄を掛けるのですが、170mもの縄の一点を柱上に当てるのはかなり難しく 例年 苦労する場面であり、また見せ場のひとつともいえましょうか。
この時、縄の方向の微調整を指示するのも、窟天頂に居る上り子の役目であり岩塊ギリギリのところから目視で指示します。 高所恐怖症の人にはできない仕事ですね・・。
(ビデオ長編)
柱に掛けられた御縄は その先が堤防端の固定柱に結わえられ、これをもって「御縄掛け神事」の本旨が終了。
上り子による14個の餅が境内に撒かれ その後下山。 神職・氏子・参加者たちも境内に戻り神事と豊栄の舞(巫女舞い)の奉納、さらなる餅撒きが行われて全ての祭事が完了します。
蒼天を渡る御縄に撚られた7本の小綱は伊弉冊尊の御子神七柱を表し、御縄から下げられた3本の三旒の幡は三貴神(天照大神、月讀命、素戔嗚尊)を表すといいます。 大身の窟と海への出口を結んで有馬の里に今年も安寧を約してくれるのでしょう・・。
「御縄掛け神事」は花窟神社の例大祭であるため2月の節分(春季大祭)の他、10月2日(秋季大祭)にも行われます。
紀伊半島の南東、古の熊野国の一端で執り行われる妙趣の神事、ご興味を持たれましたなら幸いです。 尚、縄引きの一般参加に関する可否は神社にお問い合わせください。