心に輝き 芋掘り藤五郎伝承(前)- 石川県

本年は、まさかに年明け早々甚大な自然災害や重大事故が相次ぎ、気持ちの重いスタートとなってしまいました。

特に大規模地震に見舞われた石川県は北部を中心に未曾有の被害を受け、あまつさえ9月に発生した奥能登豪雨で重ねて大きな打撃を被りました。

復興に尽力する人々の苦労は偲ばれど、一年近くが経った今でも水道など未だ基本インフラの復旧に至らない地域が残るなど、政府等対応の歯痒さを感じながら・・。今さらながらに災害の犠牲になられた魂に手を合わせ、石川県の一日も早い完全復興を祈るばかりです。

 

南海トラフによる大地震が予想される(私の住む)和歌山県なども他人事ではありません。

自然災害は突然に訪れることや、予想を遥かに超えた被害をもたらすことが少なくありません。 被災を完全に無くすことはできないでしょうが、少しでもゼロに近づけるため、日頃からの備えと・・何より防災への意識を維持していきたいと思います。

「能登半島大雨災害義援金」などに関しては現在も継続中です。
よろしければご一覧ください。

♡ 日本赤十字社:能登半島大雨災害義援金

♡ Yahoo!基金:令和6年9月能登半島豪雨災害 緊急支援募金

♡ sumabo:令和6年9月能登半島大雨災害支援(1日1円ワンクリック募金・出費負担無し)

♡ Heartin:能登半島地震支援(1日1円ワンクリック募金・出費負担無し)

 

昨年の今頃 投稿した「加賀忍者寺に紡ぐ歴史と妙なる異聞」以来、作成を見合わせていた石川県の記事ですが、些か希望への願いも込めて1年ぶりに書かせていただきます。

石川県内ではよく知られた民話伝承という、当たり障りのない内容で恐縮ですが、お楽しみいただければ幸いです・・。

『芋掘り藤五郎』

今は昔のお話

加賀国は山科という里に藤五郎という男が住んでおった

山や川の恵みのみで口をつなぐような質素な暮らしをしておったが その中でも自然薯(山芋)を掘ることに長けており・・

芋の蔓(つる)をチラリ見ただけで土中の芋の出来を見分けるほどであったという・・

藤五郎の掘る芋は どれも太く長く味も良いので 里の者からも よく欲しがられた
すると藤五郎 ろくな見返りも取らず気前よく分けてやった

よって藤五郎 気楽な暮らしではあったが
その暮らしはとても貧しく 住む家はあばら家 着るものもまことみすぼらしいなりであったという・・

 

そんなある日のこと・・

立派な身なりの父娘連れが 幾人ものお供と荷を従え藤五郎のあばら家を訪れてきた

「藤五郎殿といわれるは そなたでござりましょうか」

物腰柔らかくも重々しくたずねる父親

「確かに俺が藤五郎ですが お前様は?」

いぶかり問い返す藤五郎に娘の父親は 自分がはるばると藤五郎をたずねて来たわけを話した・・

父親の名は生玉右近萬信といい 大和国は初瀬の人という

不自由のない家柄であったが 唯ひとつの悩みは夫妻の間に子が恵まれなかったこと

どうにかして子を授かりたい一心で初瀬の観音に願を掛け 日夜 祈りを込めたところ
念願叶って玉のように美しい娘に恵まれ和子(わご)と名付けた

 

ところが和子が十五の歳になったとき夢枕に観音様が立ち こう告げられたと

〜 そなたらの娘の婿は 加賀国山科の里にいる藤五郎という貧しき者なり 連れ行って嫁がせるが良い・・ 〜

驚き悩んだ夫妻ではあったが 深く観音様に帰依していたこともあり
そのお告げに従い 嫁入り支度を整え はるばると和子を連れて山科までやって来たのだそうな・・

 

「このような訳ゆえ どうか娘の和子をもらってやっていただきたい 藤五郎殿・・」

父親の話を聞いて驚いたのは藤五郎のほう

「とんでもねぇこと! 見てのとおり俺は貧乏暮らし 家もあばら家 とてもお嬢さんに見合う相手じゃねぇです」

困った顔でしきりに断わる藤五郎

しかし父親の願いは変わらず あまりに熱心に心を込めて頼むので
その願いにほだされた藤五郎 ついに和子を嫁にとることになったのだと・・

 

嫁入りした和子
まだ歳も若く もともと不自由ない家柄であったにもかかわらず
貧乏な暮らしに愚痴ひとつ口にせず まめまめしく夫を支えて働いたという

とはいえ 嫁に来て何を驚いたといえば 夫 藤五郎の欲のなさ
金や身代にとんと執着がなく 里に困った人があると聞けば家の金でもポンポンくれてやってしまう・・

おかげで藤五郎も 相応の支度も設えて嫁に来たはずの和子も いつも貧乏であったと

風の噂でこのことを知った初瀬の親元が 暮らしの足しにと黄金(砂金)を送り届けて来たときも 藤五郎有り難いというふうでもなく

あろうことか 泉の端にいた雁を捕らえようと
手頃な石がなかったので代わりに砂金の入った袋を投げつけ
雁は捕れずに砂金も失くしてしまうという塩梅・・

これにはさすがの和子もあきれ

「なんというもったいないことを・・ あれは砂金といって世の宝ともいうべき物ですのに」 と藤五郎をたしなめたと

 

ところが藤五郎・・

「あれが世の宝というなら 裏手の山は宝の山じゃ 何なら明日にでも見にゆくか?」と事も無げにいう

わけの分からぬことをと思うた和子じゃったが 貧乏とはいえ嘘などついたことのない夫の言葉 次の日は朝の早くから藤五郎とともに裏山に出かけたのじゃった

山の畑に着くと いつものように芋掘り・・
これの何が宝に結びつくのか分からぬ和子であったが
そのまま芋掘りを手伝い 日も傾きかける頃には家の傍らの泉まで帰ってきたと

そして その泉で取ってきた芋を洗うと・・
泉の浅瀬がにわかに黄金色の輝きに満ちてくるではないか

「あれあれ・・ これはいったい・・」

驚く和子に藤五郎

「お前のいう宝と同じものじゃろう お前や人がこれで喜ぶというなら いくらでも取ってきてやるぞ」 といつもどおり屈託のない笑顔で言うたと・・

 

泉の底が全て輝くほど砂金を貯めた藤五郎と和子であったが
二人はそれを自分たちだけのものとせず 里の人々や暮らしに気前よく施したため
やはりその暮らし向きは貧乏なものであったと・・

しかし二人はいつも仲睦まじく暮らしておったと・・

 

物語では砂金がキーアイテムのひとつとなってはいますが、実際のところ砂金もしくは金銭がどうこうという話ではなく、おそらくは藤五郎という奇特な人物とそれを支え続けた和子を地元の民が称えて生まれた話なのでしょうか・・。

藤五郎が芋を洗って砂金を取ったという泉があった場所を “金洗い” と呼んだそうで・・、一説にですが “金沢” の名の由来になったという話まであるそうです。
また兼六園の敷地にある “金澤神社” の傍らには “金城霊沢(きんじょうれいたく)” という名の泉があり、それが藤五郎の泉であるという伝承も残っています・・。

兼六園:「金城霊沢」

いずれにせよ、自他ともに愛する心を持ち、夫婦仲良く支え合い生きてゆくことができれば、それはひとつの理想的な人生なのかもしれませんね。

金沢には藤五郎に関する伝承が他にもあり、次回はそのあたりをご案内していきたいと思います・・。

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