前回の記事「鶴富姫と那須 “大八郎” 宗久」による悲恋の物語は、宮崎県の北西部 熊本県にも接する “椎葉村” からお伝えしましたが、本日は同じ宮崎県ながらも中心地である宮崎市の一角、下北方町(しもきたかたちょう)に伝わる伝承を軸にお送りしたいと思います。
前回同様、平安の世と平氏の落日を告げた “治承・寿永の乱(源平合戦)”。 この終焉は一介の終焉にとどまらず多くの悲しみや苦悩をも生み出しました。
鶴富姫伝承では村を去る大八郎の言置に基づき、生まれた女子の赤子から やがて現世に続く命脈を得る物語でした。 そして本日は同じ落人ながらも源頼朝の厚意を退けて下北方へと下り、この地で憂悶を噛み締めながら生きたひとりの男のお話になります・・。
現在の下北方町は宮崎市街地のやや外れ、西に大淀川、南に町境を介して「宮崎神宮」に接した閑静な住宅地です。町内に「平和台公園」とその岳陵を抱き緑に溢れた有閑の里ともいえるでしょうか。
そびえ立つ「平和塔」は宮崎県のシンボライズの一角でもあり、周囲の芝生公園や自然散策路は市民の憩いの場ともなっています。 また「皇宮神社」は「宮崎神社」の摂社という位置付けながら宮崎神社の “元宮” でもあり、神武天皇が壮年期、まだ磐余彦尊(いわれびこのみこと)であった時代を過ごした宮殿であったとも伝わります・・。
初代天皇の郷里とはいえ、古史にあって決して栄え賑やかだったとは言い難かった寒村に、独り朴訥に、あまつさえ自ら眼の光を捨てて生きたのが「平景清(たいらのかげきよ)(藤原景清)」でした。
平氏方で侍大将を努め、源平の覇権騒乱にあって壇ノ浦の決戦以降も最後まで抵抗を続けた “藤原忠清” の七男として生を受けた景清。 父と同じく平氏に従って戦い続けたがゆえに「平景清」と呼び習わされますが、異名を付して “悪七兵衛 景清” とも言い伝えられます。
“悪七兵衛(あくしちびょうえ)” の “悪” は別説に、壇ノ浦の敗戦・敗走後、匿ってくれた叔父を些細な間違いから殺してしまい後悔したことから付けられたという話がありますが、後世の語りによる脚色である可能性も高く・・。 実際には当時の悪坊とでもいうべき相当な “勇猛果敢” を表した名付けであったと思われます。屋島の戦いで敵将の錣(兜の一部)を素手で引きちぎった “錣引き” の逸話からもそれが伺えましょう。
景清も父同様、最後まで平氏の滅亡認め難く、落ち武者となってなお源氏に一矢報いんと “源頼朝” を付け狙い・・。 ついに建久6年(1195年)3月13日、奈良東大寺の法要に訪れていた頼朝の館に討ち入りますが、無念、絵に書いたような多勢に無勢。一刀浴びせるも叶わず捕らえられることに・・。
しかし、ここで源頼朝。 最後まで信念を貫く景清の潔さと音に聞こえた武勇を惜しんで景清の一命を赦し、自らの軍門に降るよう諭しましたが景清はこれを固辞。 日向国へと流されることとなりました。
流地の下北方において勾当(寺院の法務)の役を充てがわれますが そこは流人の分際、実際には下役の一僧に過ぎません。 されど これまでの人生を打ち捨て、死んでいった同胞たちの菩提を弔わんと景清、朝夕念仏を唱え深く仏門に帰依していたそうです。
しかし、それでも胸の内にくすぶる慙愧の念はいかんともし難く、苦悩の日々を送る景清の心身を痛め続けていました。 如何に時代が変わろうとも今まさに謳歌を聞く源氏の栄えを見るには耐え難かったのでしょう。
そしてある日景清、「我にはこの健眼こそ心を迷わす大敵なり!」と叫ぶと、にわかにその両目を抉り自らを盲目と成らしめたのでした・・。
景清が眼を抉り捨てた地は生目(いきめ)と呼ばれ、今に続く「生目神社」の由緒となっています。 生目神社は景清の後の時代に豊後国(大分)の代官 “池田善八郎” が参拝した折 ~景清く照らす生目の鑑山 末の世まで曇らざりけり~ との句を詠み 後世へ伝えたと残ります。
眼の光を捨てた景清。その後 下北方の一所に草庵を結び、独り苦労な人生を送ったといいますが・・。
ところで、その景清には壮健なる頃、京の清水に深く馴染んだ阿古屋(あこや)という女性がいました。 そして阿古屋との間には “人丸” という一人娘もいたのです。
武士なれば不穏の影が立ち込めてゆく世の中で、その縁は断ち切れ時も経っていましたが、打ち続く平氏郎党悲報の中、景清が遠き日向の地へ流された噂を耳にしたのも人丸でした。
平氏の残党ことごとく無念で狂おしき余生であることを思い、一念 “父恋し” の想いのもと人丸は一人の供人を頼み、まだ年端もいかない弱き女子の身ながら西下の道を辿ったのです。
ある秋の日も傾きかけた頃、人丸はようやくのこと日向国下北方の地に足を踏み入れました。 足は棒のようになり長旅の疲れも溢れていましたが、ついに父のいる場所に辿り着いたことの方が人丸には嬉しかったのでしょうか・・。
早速に方々を訪ね歩いて とある河原の近くまで来た時、一軒の貧しい草葺きの庵が目に止まり、その傍らに人影があるのを知りました。
静々とその人影に歩み寄り声を掛ける人丸・・
「もし・・、この辺りに平家の流人となった方はおられませんか?」
突然の声に、何か胸を突かれるような想いが走った景清でしたが・・
「何・・? 流人とはいかなる者か・・?」
ややも声を震わせながらも問い返します
「はい、その名を藤原景清、またの名を平悪七兵衛景清と申します・・」
我が身の驚きにその血が逆流するかのごとき・・ この声には確かに聞き覚えがある
あろうことか、十年も前に袂を分かった己が娘の声ではないか
今生 この地この身で再び聞くことになろうとは・・
思わず娘を引き寄せたい想いに駆られながらも、それを押し殺して景清は答えた
「流人の噂を聞いたことはあれど ご覧のとおり それがし盲目の身ゆえ定かには存じませぬ 他所でお尋ねくだされ・・」・・・
不審を感じながらも草庵を離れてゆく人丸
(あの声は人丸に違いない まだ幼いうちに亀ヶ谷の長に預けておいたのに・・ このような地にまで・・)
溢れ出る親子の情と我が身の不甲斐なきに 身も焼かれるような想いで庵に戻った景清・・
一方 草庵を離れた人丸は小径を歩いていた村人に同じように流人景清のことを聞いた
すると村人は怪訝な顔でこう答えた
「あなたさんは今しがた そこの草葺きの小屋を訪ねなさったのではなかったのかね・・?」
「はい、あの庵には盲目の乞者がいましたが・・」
「そう、その人がお尋ねの景清どのですよ」
人丸は思わず胸が詰まった 時が経ったとはいえ あまりに変貌したとはいえ 我が父を前にしながらそれを看破できなかった・・
人丸の供人が歩み出て村人に頼んだ
「恐れ入りますが 貴方が景清どのを呼び出していただけませんでしょうか? この方は景清どのの忘れ形見なのです」
事を察した村人は
「いいでしょう・・なるほど 景清どのは落ちぶれた我が身を恥じて親子の名乗りを抑えられたのでしょうな」
村人は人丸たちを連れ立ち草庵の前に行くと
「景清どの・・景清どのはおられるか? 悪七兵衛景清どの!」と呼んだ
すると暗い庵の中から自棄にも等しい悲しい声で
「誰じゃ!? 今はやかましい! 過ぎた我が名を呼ぶ者は何者ぞ!?」 と声がする
肩をすくめながらも笑顔で人丸たちを促す村人
「父上! 人丸でございます よもやお忘れではなく・・」
声を震わせて景清の膝前に寄る人丸
唖然としながらも 宙に手を泳がせながら やがてしっかりと娘の方を握りしめる景清・・
鬼をもひしぐ荒武者と噂された景清の相貌も、温かい父娘の血潮に止めどない涙に濡れたという・・。
この後、人丸はこの地にとどまり父の支えとなって生きましたが、建永元年(1206年)得た病がもとで27歳の人生を終えました。
娘を失った景清は孤独の生活に耐えながら建保2年(1214年)、霧島神社参拝の帰途に倒れ62歳で没したと伝えられます。 景清の遺灰は持ち帰られ祀られた場所が現在の「景清廟」、県の史跡となっています。
境内には先に他界した人丸も “孝女” として祀られており「人丸姫の墓」として知られています。 戦乱の世に分かたれ苦悩の果てに再開を果たした父娘は、ようやく静かに水入らずで過ごしているのかもしれませんね・・。