~ 祇園精舍の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし 猛き者もつひにはほろびぬ ひとへに風の前の塵に同じ ~
ご存知 平家物語 冒頭の一節です。
「此一門にあらざらむ者 皆人非人なるべし」(平家にあらずんば人にあらず)
平時忠によるこの言葉のわずか10年後に 平家一門はその落日を迎えます。
元暦2年(寿永4年 / 1185年)春、壇ノ浦において清盛が頂いた安徳天皇は潮の浄土へと渡り、武人も女官も多くがその後を追いました。
“ただ春の夜の夢のごとし” の言葉のとおり平家による栄華は幻の如く過去のものとなり、時代は鎌倉の世と移り変わっていきますが 平氏の血筋がそこで完全に途絶えたわけではありません。
壇ノ浦で入水したものの救われ後 出家した建礼門院 以外にも、捕虜となり斬罪に処されなかった一族の者やその家族、合戦以前に一門から外れていた平頼盛など 後世に平氏の素性を伝えた者は以外と多いと言われています。
そもそも(いわゆる)”源平合戦” という通称から、この争乱を平氏一族と源氏一族の抗争と受け取られがちですが、実際には平清盛(伊勢平氏流)が築いた専制的な体制に対して勃発した反乱勢力による武装蜂起であり、その中心的役割を果たした源頼朝を支えたのは “坂東平氏” たちでした。 元々、祖を同じくする源平両門の覇権的内紛という側面をも持ち合わせていたのです。
それ故 源氏方に与した平氏一族もあれば その逆もあり、あまつさえ武門ではない源平両族もあり、この一大合戦を経て絶えた源一族もあれば安寧を得た平一族も少なからずありました。
とは言え 合戦で死を免れた者の多くは敗走・いわゆる落ち延びる事となり、源氏方の追手を逃れて人知れぬ土地まで逃げ延び、そこで息を殺しながら生きながらえるといった人の方が圧倒的に多かったのではないでしょうか。
九州 熊本に県境を接する宮崎県の奥地、谷川の畔に息づく椎葉村、ここにも平家の敗走集団、いわゆる落人が辿り着き この地に根を下ろしたという伝承が残っています。
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壇ノ浦の合戦 終了後、平氏再興の芽を摘むべく全国に追手を差し向けていた鎌倉(源氏方)は、九州日向のこの地に平家残党ありとの報を受け、屋島の戦いでも勇名を馳せた那須宗隆(那須与一)にその追討の命を下したのでした。
ところがその頃 宗隆(与一)は病に伏せっていたため その任を弟 宗久 “通称 大八郎” に託し、大八郎は大将として兵を引き連れ落武者が通ったであろう豊後(大分県)から阿蘇路(熊本県)をひとつづつ踏み越え目的地である椎葉の近くに布陣、里の様子を伺います。
しかし、数日の調べでわかった事は、里に落ち着いた落人達は既に刀も捨て この地の民として根を下ろし、日々慎ましやかに暮らしている姿でした。
里に厳かに入場した大八郎は村人達に既に平家再興の意思などがないことを知ると、これを無慈悲に討伐するには忍びないと考え、ついに鎌倉方へは「この地の残党ことごとく成敗せり」と虚偽の報せを送り、自らはこの地に残りこの隠れ里の生活向上に与することにしたのです。
狭い土地で有効な農耕の知恵を授けこれを手伝い、また神仏に畏敬の念高かった大八郎は かつて平氏の心の拠り所でもあった厳島神社を勧請し、村人の平安を祈ったのでした。
おかげで村は救われたばかりか暮らし向きも少しづつ良くなっていきましたが、その頃大八郎の身の回りの世話をする者の中にひとりの女性がおりました。
名は鶴富姫、なんと あの平家の棟梁 平清盛の末孫だったそうです。
かつての因縁を捨て自ら村のために働いてくれる大八郎、健気に尽くす鶴富姫、互いに憎からず思う二人の仲はいつしか分かたぬものとなり、やがて鶴富姫は身籠ることとなりました。
辺境の地の苦労多い暮らしながら笑顔を取り戻した村人たち、そして、大八郎と鶴富姫、慎ましやかながらも幸せな時は流れてゆきましたが、世の皮肉とはこのような時に訪れるもの・・鎌倉から大八郎へ帰還の命が届いたのです。
幕府の命とあらば従わぬわけにはいきません。ぐずぐずしていると催促のための兵がまた来ぬとも限らないからです。
大八郎と鶴富姫は泣く泣く別れなければならなくなりました。
別れの日、大八郎は鶴富姫に太刀と那須の家系を著した書状を与え
「生まれくる子が男子ならば書状を持たせ下野国(大八郎の所領)へ来させよ、那須の男として取り立てよう、女子ならば手許で育てるがよい」
と言い残して旅立って行ったのです。
月満ちて 生まれた子は女の子でした。鶴富姫はこの子を大事に育てあげると やがて婿をとり ”那須” の姓を名乗らせました。
かつて自分たちの一族を滅びに導いた敵方の名であっても今は敵味方の因縁を越え、新しい時代に生きる名として椎葉の地に根付き、今日に至るまで絶えることなく続いているのです。
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宮崎県 東臼杵郡 椎葉村 には今も鶴富姫 / 那須家 後裔の住居である「那須家住宅」通称「鶴富屋敷」が残っており国の重要文化財に指定されています。
その傍らには 鶴富姫の墓が静かに佇んでいます。
また、隣接する丘の上には椎葉厳島神社があり那須大八郎によって勧請されたものでしょうか。
古式を彩る催事としては昭和60年に「椎葉平家800年まつり」その後、毎年11月に「椎葉平家まつり」として開催され、山間の町にありながら多くの観光客を集めるイベントとして知られています。
”栄光” はいつか必ず色褪せるもの、しかし利害我執を越えて育まれた人の情けは時代を越えて生き続けるもの、 そう思わせてくれるロマン溢れる伝承でした。
次回も宮崎県から “治承・寿永の乱(源平合戦)” にまつわるお話を 続けてご案内したいと思います・・。
「椎葉村」 公式ホームページ
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(椎葉村役場・地域振興課)
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