全く何の脈絡もなく、その場とは何の関係もないトピックを思い出すことがあります・・。
まぁ脈絡もなくといっても、何かしらの些細な情報がキーワードとなって忘れていた記憶を呼び起こすのでしょうが、その経路が不鮮明なために本人としては いきなり頭に浮かんできたような錯覚を覚えてしまいます。 しかし、それらは得てして記事のネタになったり、仕事の方向性転換への切っ掛けとなったりするので、中々疎かにもできません・・。
・・で、今回 いきなり思い出したのが “2000年前の蓮の種が発芽した” というトピック。
記憶が確かなら今から55年ほど前、私がまだ小学校低学年の時に聞いた話だったのです・・。
つまるところ昭和40年代、おそらくは学校の教科書あるいは何かの本で読んだのだと思います。 よってココをご訪問いただいている皆様の中には “そういやそんなのあったな・・” と思われる方も お一人やお二人位おられるかもしれませんね。
・・で、その蓮の種のトピック。その時点で書籍掲載されているのですから、実際に起ったのはそれよりずっと前。昭和20年代のお話です。
千葉県千葉市、検見川(当時)にあった東京大学所轄の営農地において偶然、丸木舟など数点の遺物が見つかりました。
調べたところ 非常に古い時代のものと判明、引き続き発掘調査を継続。結果 他に二艇の丸木舟や果托(かたく・蓮の花弁が散った付け根部分)が見つかったため、当地は古の湿地であり小さな船着き場であったと判断されたそうです。
古代の果托の報に植物学者である “大賀一郎” 博士が参加、地域住民の手を借りて期間限定で調査を続行。期限最終日の前日 昭和26年3月30日に蓮の実(種子)一粒を発見したのは参加した地元の女子中学生であったといわれます。
最終的に見つかった三粒の蓮の実でしたが、博士が育ててみたところ何と三粒とも発芽に成功。 しかし、内一粒は間もなく枯死、もう一粒も株化の後に立枯れ。残る一株、女生徒の見つけた最初の種子からの株だけが生育を保ち、発見から1年3ヶ月後には美しいピンク色の花を咲かせました。
地質の年代測定から当地は縄文時代に形成された集落の一部であり “落合遺蹟” と命名されました。 つまり蓮の実は凡そ2000〜3000年の時を経て現代に蘇ったのです。(丸木舟の放射性炭素年代測定から:シカゴ大学)
再生発芽に成功した博士の名をとって この蓮は「大賀ハス(おおがハス)」と呼ばれ、世界に驚きをもって迎えられアメリカはLIFE誌の一面をも飾りました。一躍 “時の人” ならぬ “時の花” といった感じだったのでしょうか・・? (^_^;)
大賀ハスは千葉県農業試験場に移され安定成長すると、後に千葉公園・弁天池へ一部を移植。千葉県の天然記念物に制定されました。
その後も全国に分根され北は青森県から南は沖縄県そして海外まで、その生育地は250ヶ所以上に広がっています。
育ての親ともなった “大賀一郎” 博士は大学生時代から “蓮” に興味を持ち研究に取り組んできた “蓮のスペシャリスト” でもありましたが、その行動指針の根底には常に “平和” や “友好” への願いが息づいていたといわれています。 満州で研究員として勤めていたときは、当時の軍部の動向に反発して辞職、東京に戻ったのだとも・・。
根株を分けて、数多の池沼にその生命の輪を広げていく蓮の生態。泥の中で生まれ育ちながらも、清い水に洗われやがて美しい花を咲かせる奇特な花・・ともいわれる蓮。 それは「蓮ハ平和の象徴也」と遺した博士の理念そのものだったのかもしれませんね。
植物の種子の寿命は普通1〜5年程度といわれています。
ところが大賀ハスのように特殊な状況に置かれた種子は “休眠” という状態に入ります。内部の代謝を極限にまで抑え外部要因との関わりを絶ったような状態。
過酷な状況下で生き延びるための植物の戦略ともいえるでしょう。数百年前の籾から発芽した記録もあるそうです。
とはいえ、これらは極めて稀な事例であり2000年を超す再生は、やはり奇跡とも呼ぶべきものと言えましょう。
蓮の花の見頃は基本的に真夏の時節ですので、残念ながら今年は見送りの時期ですが、彼岸を過ぎても一向に暑さが緩まない今年の夏。まだ水辺に可憐な花を残しているところもあるかもしれません。
“大賀ハス” “古代ハス” “2000年ハス” などで検索して、お近くの分根・生息池を探してみるのも一興ではないでしょうか。
小学生当時、この話を読んだときには子供ゆえに「ふ~ん・・」程度の感想しかなかったように思います。 55年からの時を経てその意味の大きさを理解するようになった時に、いきなり思い出し今回の記述となりました。ある意味 知識というものの一面なのかもしれません。
忘れ去られていた脳内の種子が一応の実を結んだのです。
まぁ2000年には比べようもありませんが・・(^_^;)