山口県下関市、下関の名産と言えば真っ先に思い浮かべるのが やはりふぐ、ふぐ刺し / てっさ、ふぐ鍋 / てっちり、美味しいですよね、少しばかり高価なのが玉にキズですが・・
しかし、下関は雲丹 / うにの特産地でもあるようで、アルコールと調味料を加え瓶詰めにした いわゆる「粒うに」の発祥の地なのだとか。
その昔、うに料理は軽く塩を加えただけで食す自然食だったのですが、ある時開かれた酒宴で出されたうにに、たまたま酒がこぼれかかってしまい それを口にしてみたところ、酒の芳香な味わいと うにの妙味が混じり合い予想外の珍味が発見されたのだとか・・
それを元にあらためて研究開発されたのが「粒うに」なのだそうです。
長年に渡り下関の”食” の一端を担い、多くの美食家の舌を唸らせてきた うにに感謝し、さらなる豊漁と海の安全を願う「うに供養祭」が毎年10月に阿弥陀寺町の浜でうに組合立ち会いのもと うにの放流も合わせて執り行われます。
神事を司るのは『赤間神宮』、下関の地と海を安らげる浜の宮。
御祭神は安徳天皇 1185年4月 源平 壇ノ浦の戦いにおいて入水、浄土へと旅立たれた幼帝を主祭神とし、同時に多くの平氏の御霊をも鎮めている神社です。
元々は貞観元年(859年)に阿弥陀寺として創建、営んでいたものを 建久2年(1191年)勅命により安徳帝を祀る御影堂が建立され、母、建礼門院 縁の尼によってその菩提を以来数世紀に渡って鎮めてきました。
明治以降、寺院としての姿は無くなり「天皇社」という名の社となり後「赤間宮」に改称、以後 地元の崇敬のみにとどまらず全国からの参詣も集めていましたが、昭和の大空襲による被災でその大半を消失してしまったそうです。
再興には20年を要し昭和40年4月 ついに新社殿が竣工、新たな「赤間神宮」の歴史が始まりました。
海峡を見渡す社殿境内で特徴的なのが「水天門」ひと目見てその姿から思い浮かべるのは おそらく殆どの方が「竜宮城」ではないでしょうか。
それもその筈 この門は明治時代、この社が神社として歴史を変えられた折、明治天皇の后 昭憲皇太后によって詠まれ納められた歌が契機となって後 昭和三十三年、極めて珍しい”竜宮造り” として造営されています。
ー 壇ノ浦の合戦でいよいよ今際の際となった時、「尼よ、我をどこへ連れて行こうとするのか」と問う安徳天皇(当時満6歳)に、二位の尼が慰め遺した「波の下にも 都ありとは」(天子様 波の下にも都があるのですよ)という一節に感極まられた昭憲皇太后は「いまも猶 袖こそぬるれ わたつみの 龍のみやこのみゆき思へば」(海の底の竜宮に行かれた天子のことを思うと今もなお 涙で袖を濡らしてしまう)という歌を納められたそうです ー
白壁 アーチ型の土台に、青銅板葺きの屋根を戴いた丹塗も美しい回廊造りの上層部分をもつ特徴的な姿のこの門は 関門海峡の風景の一部とも言われ、本年3月には”御代がわり” に合わせ海風に荒らされた部分の修繕と塗装直しも施されました。
この赤間神社では安徳天皇の御霊とともに壇ノ浦に散った平家一門の霊をも鎮めています。
御子を抱いて水底の宮へ渡った従二位尼時子を含む14名の供養塔が並び、別名「七盛塚」とも呼ばれ長きに渡って供養を捧げられてきました。
また、この平家一門の墓が並ぶことから この地は 小泉八雲による怪談「耳なし芳一」の舞台としても知られています。
夜毎、平家の霊に頼まれ知らぬ間に暗き霊地で琵琶を奏でた芳一のお話は真に怪談ですが、同時に夢破れ波の彼方へと散った平家一門の悲しみをも湛えていますね。
赤間神社では 平家 及び「耳なし芳一」縁の地として今も時折 関連行事を開かれており、現代の琵琶演奏者による「平家物語」の朗詠などイベントを行われています。
さて、今回、悲しいキーワードに結びつきやすい「平家」や「耳なし芳一」に関わる神社なだけに、ややもすると暗いイメージの記事内容となってしまいましたが、現在の「赤間神社」は荘厳な中にも新しい時代を生きる颯爽とした力に溢れています。
関門海峡を代表するパワースポットとして知られ、また 新しき生命につながる縁結びの社として多くの崇敬を集めているようです。
世界的にも珍しい「水天門」の美しさとともに早潮壮観な海峡と門司を見渡す絶景
一度は参拝してみたい神社の一候補として如何でしょうか・・。
・・あ、そうそう! 最後になりましたが、関門自動車道(下りのみになりますが)「壇之浦パーキングエリア」フードコートでは、下関の海の幸たっぷりのメニューが目白押し。もちろんフグ(下関では “ふく”)関連の定食も数多く、それも超リーズナブルな価格でご賞味いただけます。お立ち寄りの際は是非!