茶であり咳であり棘であるもの(後)各地

年ごとに募ってゆく 老いの衰えというものは中々に厄介・・というか虚しいものでもあります。足腰は弱り耳も目も遠くなってくる。持久力は下がり血圧だの消化だの体の基本的な部分にまであれこれ不具合が生じてくる。若い頃はこんなことくらいで・・と思っても歳には勝てません・・。

とはいえ、昔と違って現代の高齢者はかなり健康・・というか、いわゆる “年寄り臭さ” を感じません。昭和も中盤くらいまでは “くの字” に腰が曲がって乳母車をついている お婆ちゃんなど よく見たものですが、今どきのお婆ちゃんはスマホ使いこなして旅行にもバンバン出かけますw。

何にせよ元気なのが一番ですが、歳とともに体のあちらこちらに疲労や障害が出てくるのも事実。 最早90歳が寿命年齢となりつつある中、なるべく健康な状態を維持していきたいものですね。

 

目の病に苦しんだお婆さんが、”お茶の婆さん” にお参りしたことで平癒したという前回のお話。 群馬県桐生市の青龍山養泉寺にある祠に伝わる伝承でしたが、実はこの養泉寺から20km程 南東にある、館林市(群馬県)の一画にも “お茶の婆さん” と呼ばれる祠が存在します。 かなり古いものと思われ一説に室町時代のものとも・・。

養泉寺のものと異なり路傍にひっそり佇んだ小さな祠ですが、元は現在地よりさらに100m程南東の 尾曳城(おびきじょう / 館林城)に関わる場所にあり、”関の神” や “火防の神” の性格をも持っていたのではないかといわれています。

“関の神” とは いわゆる “塞の神” や “岐神(ふなどのかみ)” に似た “道祖神” であり、村落の境界・岐路に位置して、病魔・悪霊そして災難などを退ける神ですが、これがいつの頃からか “関の神” 転じて “咳の神” となり、咳病(要するに風邪や気管支の病)に霊験ありとされたのだそうで・・。

館林市本町 路傍の “お茶の婆さん” 祠

前回のお話でも触れましたが、つまるところ “とげ抜き”(苦しみ痛む病を癒してくれる)信仰対象のひとつといえるでしょうか。

“とげ抜き” にあっても、こちらは主に “咳” 担当(呼吸器科?w)であり、関東地方に点在する “咳の婆さん” “咳の爺婆” に類似する性格と思えます。

 

只、これにまつわる伝承でひとつ妙に思えるのが “願掛け” の方法です。もしかすると前回の眼病のお婆さんも同じ作法でお参りしたのかもしれませんが・・。

風邪にかかると “茶断ち” をする・・のが習わしなのだそうです。普段の お茶を断って願をかけ、お陰で全快すると 墓前にお茶(又、自分の愛用の湯呑み)を供えてお礼参りをするのだとか。 いうなれば “お茶の婆さん” の “お茶” はこれが由来となっているのかもしれませんね。

ここで疑問に思えるのが、何故 お茶を断つのか?ということ・・。
何故なら元来 緑茶には咳止め効果があるからです。 知られるように緑茶に含まれるカテキンには抗菌作用があり、喉の殺菌・風邪予防に効果があります。抗ヒスタミン作用は気管支に働きかけ、咳や喘息の発生を抑えてくれるともいいます。

もちろん、これらの化学的作用を昔の人が理解していたわけではありませんが、往古の生活は “経験則の積み上げ” が大前提のはず・・。咳や喘息での苦しみに緑茶が有効なのは知っていたのではないでしょうか?  酷い咳に苦しんでいるとき有効なはずのお茶を断って、鎮静の願掛けをするのは何か矛盾のような気がしてならないのですが・・。

緑茶・日本のお茶の歴史を紐解くとそのはじめは平安時代初期とされ、当初は薬としての性格が強かったともいわれます。 一部貴族だけのものから徐々に普及を広げましたが、一般庶民の口に届くようになったのは江戸時代以降だとも。

考えるならば、京や大阪、江戸などの都市部はともかく 地方在住の農民たちには、飲む習慣はあっても緑茶は まだまだ貴重な品だったのかもしれません。 贅沢とも思える嗜好を一時断つことで願掛けに望んだのでしょうか・・?

 

さらに 神奈川県平塚市の諏訪部神社の一画には、”咳の神” であり “お茶婆さん” と刻まれた小さな祠があるそうです。 霊験・ご利益は同様・・。

こちらは、この咳の神に詣でる人々を、近所の茶店のお婆さんが いつも篤くもてなしていたことから付いた名前なのだとか・・。 こうなるともう何が “お茶の婆さん” の由来なのか分からなくなってしまいますねw。(元々の咳の神信仰は、平安末期の武士 “佐奈田与一義忠” に連なるもの)

平塚市の諏訪部神社、左影に “お茶婆さん” の祠と幟が見える

前編で明確な展開と結論は期待できないと添えたのは、こうした伝承の揺らぎによるものです・・。

医療の進んだ現代にあっても尚、新種の流行病には苦労するもの。ましてや野山の薬草を煎じて飲むくらいしか対処法のなかった時代にあって、一介の風邪であっても命取りになることは少なくなかったはずです。

それを補うかのように神に鎮静や平癒、そして厄除けを祈ることは人々の切なる想いであったのでしょう。 それが数々の伝承を纏いながら土地を変え時を経るごとに、”お茶婆” になり “咳爺婆” になり “とげ抜き” として広まり定着していったのではないでしょうか・・。

 

最後にいくつか他の “咳” 婆さんのお話を簡単に置いておきましょうか。まさにバラエティーに富んでいます・・w。

中国地方、鳥取もしくは島根地方に残るお話

~~ あるとき、畑を耕していたお婆さん。土の中に埋もれている大きな石を見つけたと。
そのままでは作の邪魔になるので掘り返し、畑の隅っこに転がしておいた。

ところが お婆さん その晩から熱を出し酷い咳に悩まされるようになったと。
医者に診てもろうても薬を飲んでもどうにもならん。
このまま どうなるのやらと気を細くして寝込むお婆さんやったが・・
ある日 その夢枕にお地蔵さんが立ちはって・・

「儂ゃ 畑の中で安定 祀られとったに・・掘り起こされて隅に追いやられ寂しゅうてならん。 もう一度祀り直してくれ・・」という・・。

お婆さん、慌てて畑に出向き、隅の大石をちゃんと祀り直すと
それまでの熱も咳も嘘のように治ってしもうたんだと・・。

この “咳婆さん” の石に願掛けすると咳病に効果があるとか・・。~~

 

静岡県西部から神奈川県南東部に残る話

~~ 戦国時代、武田氏に仕えた “想庵” とその妻 “英子” という優秀な医師がいた。

時経ちて 武田氏は衰勢し勝頼の時代についに滅亡、戦の中で想庵もまた命を落とした。

しかし “英子” は夫想庵の言い付けを守り、土屋(武田二十四将の一人土屋昌続)の遺児を守りながら相模国へと落ち延びた・・。

そこで静かな暮らしを営みながら地元の民の診療にあたったと・・。
診療に用いたまじない言葉 “ギャーギ” から、年老いて “ギャーギ婆さん” と呼ばれ村人たちからも慕われたと・・。

“ギャーギ婆さん” の墓前に祈ると不思議と風邪や喘息が治ってしまうという・・。~~

 

東京 練馬区に残る話

~~ “堰の婆さん” があったという

文字どおり 田に水を引く水路の “堰(せき)” のことであり、その堰場を守っていた老婆のことであったが、ある日を境に忽然と姿を消してしまう。

村人たちは、その老婆の風情から、あれは竜神の遣いだったのではと噂するようになったと・・。

老婆の守った堰場に建てられた祠に詣ると風邪や咳が治まるといわれたそうな・・。~~

 

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