改革の本位とは何か 上杉鷹山 夢と相克の果てに(前)- 山形県

*  本日は2018年9月の再掲載記事となります。ご了承ください。

アベノミクス の言葉が世に広まって早7年、広報においてはバブル景気はおろか いざなぎ景気さえ抜き去り戦後2番目の長期経済成長などと報じられ、政策の効果を謳っていますが、一般国民にその実感があるかというと・・どうでしょうかね・・

景気 とは単に儲かった儲からないだけの話だけではなく、世に流通する資金の流量と物品やサービスの増進ですので、データ上とはいえ成長の結果が出ているということは何処かで景気が良い状態ということなのですが、それが世の隅々にまで行き渡らないというのは根本的な改善に至っていないと言わざるを得ませんね。

貨幣による経済は既に鎌倉時代には定着し始め 同時にその盛衰をも刻み始めていますが、江戸時代ともなると米経済とともにその規模も大きなものとなり、相対的に不景気時の影響も大きく 時として深刻な窮状に見舞われる自治体(藩)も続出したそうです。

そんな江戸中期、過去から続く政策の失敗と 行き過ぎた伝統主義による浪費によって、存亡の瀬戸際に立たされていた藩の財政を立て直すため 多くの困難を乗り越えてこれを成功させ、加えて地場産業の振興、領民の文化向上までもを成し遂げたひとりの領主がいました。

 

上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)出羽国(山形県)米沢藩 第9代藩主
10歳にして先代 重定の養子となり、明和4年(1767年)若干17歳にして家督を継ぎ、後世には始祖 上杉謙信 とともに上杉神社に祀られるまでに至った方です。

鷹山 は元々米沢藩の出自ではありませんでした。日向国(宮崎県)高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸にて生を受けたものの幼くして母を亡くし、祖母である瑞耀院(豊姫)の元で養育されました。幼少より智に明るく信義に篤い利発な子であったのを見込まれ瑞耀院の実里である米沢藩への養子縁組が組まれたのです。

 

鷹山 が先代 上杉重定 の跡を継ぎ藩主となった頃、米沢藩の財政は正に”火の車” の状態であったと言われています。
戦国の世を生き抜いた初代藩主 上杉景勝 の遺志により数千人に登る旧領時代の家臣をそのまま抱え続けており、その人件費が重くのしかかっていました。
また、当時 藩内の耕作は旧態依然としており名のしれた特産品も無かったため 藩収入も伸び悩み、同時に風水害による被害も甚大に及びやすかったそうです。

加えて、先代までの歴代藩主はこれら諸問題に有効な手を打たなかったばかりか 名家であることの傲慢から浪費を抑えられず、財政悪化に拍車を掛けていました。 窮した重定は藩そのものを返上し領民の救済を幕府に頼もうとしていた節さえあったと言われています。

 

正に追い詰められた状況での藩主交代、藩政の立て直しを前にした 鷹山 の決意は並大抵のものではなかったでしょう。

鷹山 はまず身の回りの臣下を選び直しました。 旧来から使える重臣ではなく機知に溢れ民衆の暮らしを知った者たちを進んで登用したのです。
また「上書箱」という身分関係なく投書出来る意見箱を設置し、民百姓からも広く意見を募りました。今で言うボトムアップ方式ですね。


.
財政の流れを明確にするため「御領地高並御続道一円御元払帳」という財務諸表を初めて制作、効率的かつ透明化された資産状況を明らかにした結果、12ヵ条からなる大倹約令を発布、江戸藩邸、国元双方に従来からの諸費見直しと徹底した質素倹約を求めました。

江戸の米沢藩邸における自らの生活費を、年間1500両からおよそ7分の1の209両にするなど 臣下に先んじて経費を減額、日々の基本的な服装は絹から綿へ、食事は一汁一菜とし、国元にもこれに倣わせ基礎的な出費の抑制に勤めると同時に、今まで無策に抱えていた多くの余剰人員に対しても削減するだけでなく、そのあり方を模索、大胆な施策を提示します。

今まで手を付けていなかった荒れ地を利用・開墾し耕作地の拡大と靑芋や楮など新規作付けによる生産量増産や、天災被害軽減のための治水事業を積極的に推し進めましたが、その労働力に何と士分(武士)を投入しようとしたのです。
さらに武士の家内(妻や家族)には養蚕や製糸・機織なども推奨しました。

刀を置いて 今まで百姓がしていたようなことを勧められ、多くの臣下たちは唖然としました。 しかし、鷹山は自ら鍬を持ち城地の一画に畑を耕し その手本を示したのです。

 

現代においても財政建て直しのために経費を抑制したり、雇用者数を減らしたりするのは同じですが、鷹山が進めた施策と根本的に違うのは その取り組みが、先ずは発令者から、先ずは上から始め 進めていったことではないでしょうか。

上の者が身を切って行わないことに下の者は信従しないことを鷹山は知っていたのでしょう。
力あるものが生き延びるために下の者へと苦渋を押し付ける安易な施策とは本質的に違っていたのです。

上で書いたボトムアップ方式と反してトップダウンの形ですが、単に上層部で決定したことを下部に命令するのではなく、上層部自ら実行して下部に浸透させてゆく言ってみれば理想的な、究極のトップダウン方式かもしれませんね。

 

鷹山のこうした身分差を越えた民主的な思想や、自らが先頭に立って手本を示す姿勢は幼き日に薫陶を受けた儒学者 細井平洲 の影響が大きかったと言われます。平州が幼き鷹山に教えたのは”誰のための政なのか 政をなす者の責務と心構え” そして”勇気” でした。

鷹山は短絡的に経費削減を推し進めただけではなく、産品開発や領民の文化向上など必要と思われる新たな取り組みには惜しみなく費用を投入しました。今に続く織物「米沢織」身分差を問わぬ学校「興譲館」の開校などはその一例でしょう。

 

しかし、これだけの改革を推し進めると当然のように反発が巻き起こるのも必至、
鷹山は上杉家直系でなく傍系からの養子であり、また 改革のために新進の臣下を優先して重用したために特に旧来の重臣からは非常に疎まれていたのも事実です。

加えて鷹山の思想の根底には 身分による貴賎を否定するところが有りましたので、”武士” という身分にあぐらをかいていた者たちからは仇敵のように思われていたのかもしれません。

家中の意思統一も中々に進まず、もとより改革の成果など一朝一夕には望めぬもの

米沢藩、鷹山の行く先に暗雲が立ち込めてきます。

注:「鷹山」の名は隠居後51歳の時 剃髪した後 号した諱(名)で治世中は上杉治憲(うえすぎ はるのり)でしたが、記事では一般に著名である「鷹山」を使用しています。

過去のトピック&コラム記事一覧

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください