暴虐の徒か反骨の戦士か 鎮西八郎大蛇退治 – 佐賀県

本日は2019年の再掲載記事となります。ご了承ください。

なるべく有名ではない民話や伝承をお届けできるように 平生気をつけているのですが、恐縮ながら今日は佐賀県に伝わる少々メジャーな伝承、鎮西八郎(ちんぜいはちろう)にまつわるお話を書かせていただきます。

 

鎮西八郎 源為朝(みなもとのためとも)は平安末期 1139年、源義経の祖父でもあった源為義の八男としてこの世に生を受けました。

生来のわんぱく気質であったようで、少年期に至ってもその粗暴さは改まることはなく、あまりに問題ばかり起こすため、手に余った父 為義から13歳の時 勘当を言い渡され九州へと追いやられることとなってしまいます。

豊後国(大分県)に一旦 腰を落ち着けたものの、ほどなくして鎮西の位称を一方的に名乗り各地の豪族を相手に騒乱を繰り返し、驚くことにわずか3年の間に九州の多くの地を平定してしまったのでした。

身の丈七尺(2m10cm)の大男であり、その左手は五人張の弓を引くため右手に比して4寸(12cm)も長かったといわれるほどの豪の者であったと伝わっています。

 

〜 大蛇退治 〜

さて、その当時、備前国(佐賀県)有田郷白川の地に大きく静かな池があった

ところが、いつの頃からかこの池に大蛇が住みつき毒気を振り撒くようになったそうな

頭に七本の角を戴く巨大な物の怪は雷雲を従え 北の黒髪山への間を行き来するようになり、その時には目を光らせ雷を落とし口からは火も吐くので 辺りの村々では被害も絶えず稲作もままならぬようになってしもうた

民からの懇願を受けた領主 後藤助明は、若木の山に匿うていた 鎮西八郎に助力を求め大蛇退治の合議を開いたそうな

ところが、その合議の最中 いつの間にか一人の翁が現れ、麗しき乙女をもって囮となし大蛇を誘い出してこれを射止めるが良し、とだけ述べ皆の前で姿を消した

これは、神の化身・啓示であると皆得心し 早速に領内に高札を上げ 恩賞を約に囮役となる美女を求めた

 

すると、高瀬の郷に住まう万寿姫という名の齢十六の娘が名乗り出てきたそうな

万寿は地の官吏 松尾弾正の娘であったが、父を亡くし病身の母と幼い弟を抱え家族の保身とお家の再興を願い 囮役に願い出たのだった

出役が揃うと大蛇の住む白川の池の畔に櫓が組まれた 万寿は天台に座り大蛇がい出るのを待った

 

やがて日も暮れかかる頃、池の水面がにわかに渦を巻き始めたかと思うと黒き底から両目を爛々と輝かせながら 山ほどもあろうかという大蛇が姿を現したそうな

櫓の上で手を合わせながら佇む万寿姫を見止めると、その方へずいとかま首をもたげる

ここを正念場と大弓に矢を番え一気に放つ領主 後藤助明、その矢は見事に大蛇の眉間を捉えたものの血しぶきを上げながらも大蛇はますます猛り狂うた

ならば これで地に落ちよと五人張の矢に八寸口の矢を番えぎりぎりと引く鎮西八郎、今正に姫を飲み込まんとする大蛇に渾身の一撃を放った

大束の矢は大蛇の右目を射抜き さすがの化物もこれには怯み、この場を逃れんとばかり身を捩らせる

ここぞとばかり一斉に矢を射掛ける将兵たちに責め立てられ、大蛇は谷底深くなだれ落ちていったのだと

 

谷底に落ちた大蛇はまだ息があったが、丁度そこを通りかかった梅野郷の座頭 海正坊に喉笛を切られ ついに息絶えた

多くの助力をもって駆逐を成し遂げた大蛇退治

領主助明 は 万寿姫の願いを聞き届け弟 小太郎を家督として家の再興を許し、とどめを刺した海正坊にも褒賞を与えた

死んだ大蛇から鱗を引き剥がし牛車に載せて運ぼうとしたものの、そのあまりの重さに牛が倒れてしまったといわれる地は”牛津” と呼ばれ今に伝わるそうな

時が流れ この話が過去のものとなった今でも、身を賭して家と領地の再興を望んだ万寿姫、そして その後の善政をなした弟 小太郎、ともに地域の神霊として祀られている

〜 〜 〜

 

豪傑と呼ばれる人物が英雄として扱われる伝承は往々にして有り、半ば ならず者として扱われていた鎮西八郎も ここでは勇者の一介として登場しています。

史実において八郎は、九州における乱暴な振る舞いがもとで父 為義が罷免されたことにより帰京、その後、崇徳上皇と後白河天皇の対立に端を発する保元の乱に崇徳方として参戦、無類の豪勇を天下に知らしめるも多勢に無勢、敗れ流罪の身となってしまいます。

流刑地の伊豆の大島においても戦時の傷が癒えるとともに 再び豪傑ぶりを発揮、周辺の島々を平定するや年貢を収めないなどの お上に対する反骨姿勢を顕にします。

結果的にこれが引き金となり治承元年(1177年)軍勢によって責め立てられ、32年の波乱に満ちた人生を自刃によって散らしました。

 

史料によっても傑出した武人であることが知られ、蛮勇ともいえる覇を振るってきた人ですが、単に乱暴で我がままなだけの人であれば、これだけ多くの地に舞台に名を残すことは考えにくく、体制側から見れば暴虐の徒であっても 一般領民から見れば支配に抗する反骨の人だったのかもしれませんね。

民草に対しては温情をもって接していたのかも知れず、その一端を伺わせるものとしてWikipedia に次の一文が置かれています。

 

ー 伊豆大島では今でも為朝が親しまれており、為朝の碑も建てられている。島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝の剛勇ぶりにあやかって「ためともさん」と呼ぶのもその名残である。ー

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