三つの時のキーワードから見る長浜の小史 -(後)

寒い日が続きます。日本海側、北関東・東北・北海道と今年は雪も多く、東京や静岡でも何度か大雪警報が出される始末・・。雪深い地方にお住まいの方はくれぐれもご注意いただければと思います。

滋賀県の北部も雪の多い土地柄であり、特に米原市伊吹山の記録は “11メートル82センチ” と “世界最高記録” を持つ積雪量なのだそうです。東北・北海道を差し置いてとんでもない記録ですね・・。 また、今回 記事にしている長浜市も近畿地方で唯一 “特別豪雪地帯” に指定されている場所なのだそうです。 春の陽射し待ちわびる 後ひと月余りといったところでしょうか。

 

前回「140年」のキーワードで、明治15年 長浜市に誕生した「旧長浜駅」の歴史と、その駅舎がそのまま残る “日本最古の駅舎”『長浜鉄道スクエア』を ご案内しましたが、その文末において、次のスポット「45分」はスクエアの目の前に在ると記しました。 本日は そのスポットとそこに残る逸話・・ひいては長浜の偉人ともされる方についてお話させて頂きます。

スクエア前に広がるのは 約6千平方メートルの敷地を持つ端正な日本庭園、そして明治の趣き称える建物。 名は『慶雲館』 長浜の名勝として国からの指定も受けています。

庭のかしこに巨石を用い、全体に高低差を設けた抑揚感溢れる豪奢な造りは、時の匠 “七代目小川治兵衛”* によって作庭されました。(*七代目小川治兵衛:平安神宮神苑をはじめ円山公園・桂離宮など多くの造園を手掛け、近代日本庭園の先覚者と呼ばれる。)

建坪500平米(約150坪)の館は2階建て “総檜造り寄棟造” 上階には玉座が設けられ、琵琶湖と伊吹山の絶景がひと目で見渡せたそうです。 豪壮静謐なその出で立ちから『慶雲館』の名は、時の総理大臣 “伊藤博文” によって名付けられたとも伝わるそうです・・。

画像:wikipedia © 663highland

豪壮静謐な出で立ち・・の館、そして一流庭師による近代日本庭園・・、新時代の象徴、長浜駅の目の前に建てられ、さぞかし財力の有る資産家?が 我が世の春を謳歌しながら過ごしていたのか・・と、思いきや・・、この施設の建設には ある出来事が発端となっていました。

その出来事とは明治20年2月に行われた、明治天皇の京都行幸啓(京都などにご旅行されること)でした。 絶対的君主であるとともに国民からの敬慕も厚かった明治天皇が、久方ぶりに京都へ還られ過ごされた後、鉄道路線を用いて東京に戻られるというのです。

前編でご案内しましたように、当時、京都から東へ向かう路線は大津駅まで、そこから長浜までは船で渡られます。 そう、長浜の町を天皇がお通りになられるのです。
長浜の町はこの行幸に沸きました。かつてない名誉な出来事です。

しかし、これは同時に お通り当日に大きな責任が掛かることも事実、天皇が長浜に居られる時間は僅かですが、長浜駅から東への列車が出るまで ご休憩いただく適当な場所(行在所)がありません。 『慶雲館』は まさしく明治天皇ご休憩のために造られたのでした。

とは言え、天皇ご来幸の報が長浜にもたらされたのは前年19年の秋、日程まで4ヶ月程しかありません。 急ぎ11月3日に建設に着手、行在所に相応しい施設を造るには手間も時間も掛かる中、尋常ではない突貫工事でその工事は進められたといいます。

驚くべきこと、3ヶ月余りの工事期間を経て ついに落成をみたのが明治20年2月21日、長浜に天皇がご到着される日の朝だったといいますから、関係者 そして市民の焦燥感は並大抵のことではなかったのではないでしょうか・・。

ともあれ、行在所 のご用意は出来ました。慌ただしき中でのご用意なので至らぬところもあろうかと存じますが、どうか ごゆるりとお寛ぎください・・。 そんな感じだったのでしょうか・・。

市民の熱意と期待に応えながら、天皇はここ『慶雲館』に入られ ご休息あそばされたようです・・・「45分間」

天皇が長浜に上がられたのが、この日の13時前、東に向かう列車に乗られての発車時刻が13時45分。 つまり『慶雲館』に滞在されたのは最大で45分間、実際には10~20分程度だったのかもしれません。

何というか・・3ヶ月の短期間に必死の思いで造り用意してきたものが、45分以下のご利用とは何ともかんとも物足らない気もしますが、長浜の人たちにとっては ご入所いただいただけでも至上の慶びであったのでしょう。

まぁ現在でも沿道で1時間待って お通り数秒とか普通にありますしねw。

 

さて、この『慶雲館』現在のお金で億単位の費用をもって建設されましたが、その費用は公費ではありません。 “浅見又蔵” という長浜出身の実業家が私財を投じています。
上で資産家?と書きましたが、確かに財力はあるものの単なるお金持ちではなかったようです。

天保10年、長浜の薬問屋 若森家の三男に生まれた浅見又蔵は、数え12歳で他家に奉公に出るなど苦労を積み、21歳の時に縮緬(ちりめん)屋 “浅見家” の養子となります。

家業となった “浜ちりめん” の育成と興隆に又蔵は打ち込み、地域を代表する特産品に育て上げると、ついには 当時アメリカで開催されていた万国博覧会にも出品を成し遂げて、国際的な輸出品にまで その価値を押し上げたのだそうです。

浅見又蔵 画像:© 滋賀県庁

後に政治にも身を投じた又蔵は、長浜、滋賀県、国をつなぐ政財界で大きな役割を果たしながら、新しい時代に最も必要な交通機関の整備に取り組みました。
今回の記事にある琵琶湖上の連絡船「太胡汽船」の創業を成し社長に就任。また、旧長浜駅から東へ向う私鉄延伸にも尽くしたのだとか。

政財界で功成り名遂げた又蔵でしたが、公共・慈善事業にも殊の外 力を注ぎ、教育機関の創設、帰郷旧藩士の保護、博愛社(後の日本赤十字)への度重なる寄付など、稀有な篤志家としても知られています。明治5年の長浜大火の際には私財をもって救済にあたるとともに、以前から市に提議して積み立てられていた “備蓄米” が多くの被災者を救いました。

一介の金満家ではない、滋賀県・長浜の発展に生涯をもって尽くした “浅見又蔵” 、長浜の歴史に残る偉人として語り継がれているのです。

 

それでは 最後に、少々オマケ扱いで恐縮ですが「58年」のキーワードにまつわる話題を付記させていただきましょう。

そのスポットの名は『長浜タワービル』 昭和39年、高度成長期の最中、長浜にも東京タワーのようなランドマークをとの想いから、地元の資産家によって建てられた商業・観光施設です。 雑居ビル様の構成であり、当時は5階部分が展望台+喫茶店となっていました。

只、タワービルとは言うものの、当時の構想に対し建築許可が降りなかったこともあり、その高層度は限定的であり、また、珍妙な部分も少なからずあり、昭和後期以降はどちらかというと “B級スポット” 扱いであったのだとか・・。

平成以降、老朽化と景気衰退の影響で一部フロアを除いて、半ば放置状態の寂れた建物となっていましたが、この『長浜タワービル』が このほど58年ぶりに整備・改装を受けて再スタートすることになったそうです。

改装・落成は本年5月頃を予定しているようで、現在では物珍しいデザインもそのままのビルスポットは一見の価値があるのではないでしょうか。

 

今回「140年」「45分」「58年」という、ちょっとまとまりに欠けるキーワードから長浜の歴史と逸話、そして、今年 再生するビルなど、三つの小史をお届けしましたが如何でしたでしょうか。 滋賀県長浜をご訪問の際は 頭の片隅に思い出していただければ幸いです。

「慶雲館」 公式サイト

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