市兵衛仙人と忠蔵蛇 相模原の民話 – 神奈川県

本日は2018年10月 神奈川県民話の再掲載記事となります。ご了承ください。

首都 東京とのアクセスも良く商工業・交易の発展とそれにともなう人工の増加で近代日本の大番頭的な役割をも担ってきた神奈川県。 古歴においては源頼朝による鎌倉幕府の設立、戦国大名の先駆けとなった北条早雲による相模国平定とその後の隆盛、幕末期の横浜開港と日本の歴史の時々に大きな足跡を残してきました。

しかし、神奈川県も近年、国全体として人口減少の影響は避けられず、本年~来年2019年をピークに県全体としての人工も減少傾向に転じると見られています。 幾度となく歴史のうねりを越えてきた相模・武蔵の国にもまた新たな変貌の時が近づきつつあるのでしょうか。

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そんな神奈川県の西半分、相模国に流れる一級河川 相模川の中程、現在の相模原市緑区大島周辺に残るお話しです。

 

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さても今は昔、大島の村には時折、川向うの小倉の山の松山平という処に住みつき山で獲った鳥や獣、芋などを川を越えて村まで売りに来る市兵衛仙人と呼ばれる者がおった

売りに来ると言っても当時の事、村で取れる米や塩、味噌などと交換してはまた山に帰っていくという暮らし、

仙人が物など食うのかと言ったところじゃが そもそもこの仙人、風体が仙人のように髭を伸ばし垢抜けぬ着物を着さらし凡そ世離れした有様じゃったことから仙人と村人から呼ばれていただけであって、市兵衛と立派な名のあるとおり元は侍の身分であったそうな

元同心と呼ばれたこともあり、おそらくは奉行所の役人であったろうが いつの頃からか どうしたことか世情を疎み山間で慎ましやかな暮らしを送っていたそうじゃ

さて、その頃、この大島の川上に忠蔵という名の名主がおった
蔵もあり中々に栄えた身代じゃったが その蔵に一匹の大きな蛇が住み着いておった
そいつは家の米や麦を食い荒らす鼠を捕らえては食ってくれるので、はじめのうちは家人からも頼りにされ大事にされておったが、さらにその身が大きくなるにつれ大飯食らいとなってしまい終いには蔵の米までどんどん食らうようになってしもうた

いかに鼠を食ってくれるというても これではかなわんと忠蔵も困り果て、ある時ついに家人総出でこの蛇を取り押さえ、小倉の山へ放逐したのだそうな
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山へ放たれた蛇であったが昨日まで人の住処で暮らしていたもの、山の野生で獲物を捕らえる事も出来ず 日に日にその身はおとろえ いつしか餓死寸前の有様となってしもうた
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そんな死も目前の蛇をある日見つけたのが、先の市兵衛仙人じゃた
不憫に思うた市兵衛は 蛇を抱きかかえるとエンヤコラとばかり自分の住まいである庵に連れ帰り、水を飲ませ蛙や山芋を食わせ介抱してやったそうな、元 忠蔵の蛇、忠蔵蛇と呼び可愛がったという

おかげで元気を取り戻した蛇は その後、山での生活にも馴れ野生の力もよみがえり もはや人の助けも要らず生きてゆけるようになった、そして、命を助けてもろうた事に恩義を感じていた蛇は山で鳥や獣を獲ってきては市兵衛に届けてくるようになったそうで、こうして得た獲物は体に傷が付いておらず、持ち込んだ村でいつも高値がついたそうな

市兵衛は蛇の他にも獺や鳥などとも身内の如く暮しておったと噂されていたが、いつしか村に姿を見せることもなくなり、その後どうなったかを知る者もおらぬそうじゃ・・

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どこか ム◯ゴロウさん と ロビンソン・クルーソーを合わせたようなお話しですが、エピローグが少々寂しげなのが残念です。理由はそれぞれながら瀕雑を極める社会を離れ自然の中で暮らしたいという思いは生活便利な現代社会にあっても時折聞かれますが、物質に満たされサービスに包まれた私達には中々難しいことかもしれません。

世俗を捨てて山野を鳥獣と生きた市兵衛さんの心情は伺い知る由もありませんが、ある意味、自然を否定することで進歩を続けてきた文明社会であるなら尚のこと 元々人間も自然の一部であったことを心のどこかに留めておきたいものですね。

 

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