陽光の島は昔も今も時の先端とともに – 種子島

日本で最も南方に位置する南西諸島、鹿児島県の沖合から もう台湾も目前の領海域にまで連なり広がる陽光の島々です。

ひとえに南西諸島と言っても鹿児島に近い大隅諸島にはじまり、吐噶喇列島(とかられっとう)、奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島、そして 大東諸島、八重山列島、尖閣諸島 の群島から成り、大小198もの島で構成される島嶼群です。

この中で鹿児島県に近い諸島東端に位置するのが “種子島” ですが、皆様には “種子島” と聞くと、どのようなイメージを持たれるでしょうか・・?

おそらく一番、二番と答えに上がるのが「種子島宇宙センター」と「火縄銃・鉄砲伝来」ではないでしょうか。

 

JAXA(宇宙航空研究開発機構)によって、島の南端 南種子町に「種子島宇宙センター」が設立されたのが 昭和44年(1969年)、軌道上にロケットを打ち上げるための地理的要因と諸条件、そして安全面などから当地が選定されました。

以来、施設内に総合指令棟、3基の発射場や観測所、展望台や宇宙科学技術館などを備える宇宙センターとして、日本の航空宇宙技術の発展に資して来たのはご存知のとおりですね。

『種子島宇宙センター』 公式サイト URL

 

もう一つ「鉄砲伝来」に関してですが、これは 古に南蛮渡来の者が商機を求めて持ち込んだのではなく、天文12年(1543年)に偶然起きた一件の事故が端緒となったという話が伝承として残っています。

 

まだ夏の盛り過ぎぬある日の朝、西浦の浜に一隻の大型船が座礁・漂着しているのを島の住民が発見、すぐさま地頭を通して人手を集め被災者の救助にあたりました。

乗っていたのは100名程の明国系と思われる人々、それに2名のポルトガル人でした。
当初、言葉も通じず事態の把握に手間取ったものの、村で学識のあった西村織部丞が船に乗っていた儒学者 五峯を知り、これと筆談して彼らが交易(密易?)航海の途中で嵐に遭い難破したことを知ったそうです。

被災者の安全を確保した上で、船を島の政庁区である赤尾木まで曳航、主たる者を領主 “種子島時堯(たねがしま ときたか)” に引き合わせます。

 

時堯は被災した異国の民を快くもてなし、島を去るまでの衣食住を保証することを約束すると彼らは殊のほか喜び、船に積んであった交易品からお好きなものを献上すると申し出たのだとか。

異国流通のものは極めて珍しく貴重であった時代、それならばと並べられた交易品の中から時堯はひとつの見慣れない品物に目を留めます。

これは何か?と尋ねれば「鉄砲」であると言う。「鉄砲」とは何か?と尋ね、その使い方を知った時堯は、当時の最先端技術であった鉄砲の将来性を感じ取り、火薬の調合方法など技術指導を含め、これを2挺 大枚をはたいて買い受けたそうです。

数ヶ月の後、難民たちは島を去りましたが、その間も時堯は手に入れた鉄砲の自国生産の手立てを進めていました。 島に住む多くの鍛冶職人を集め、鉄砲の構造把握、分解・組み立て、そして複製を試みていたのです。

最も困難を極めたのが 当時まだ日本には無かった “ネジ” の再現でした。特殊な製法を必要とする “ネジ” は精度が出し難く、特に “雌ネジ” の制作に苦労したのだそうで、製造にあたった名匠 八板金兵衛清定をもってしても、その再現に難儀したと言われています。(その製法を得るために一人娘 “若狭” がポルトガル人に嫁いだという伝承も残っています。)

その後も幾多の困難を克服しながら「鉄砲」の再現は精度を上げてゆき、元々「種子鋏(ハサミ)」でも知られていた島の鍛冶の先進性と技術力もあって、数年の内に一定の完成品となり、以後、日本国中に広がり、戦乱の世の歴史を塗り替えることとなったのです。

島に伝わり国産が叶った「火縄銃」は形式を「マラッカ式火縄銃」(瞬発式火縄銃)と呼ばれ、ヨーロッパで実用化された火縄銃を改良した最新式のものでした。 その国産化に成功した種子島が400年後の世に、またも時代の最先端技術である宇宙ロケット発射施設を構えたことは、偶然の出来事を越えて ある意味運命的なものさえ感じますね・・。

それでは、この種子島に残る民話を一遍お届けすることにいたしましょう。

 

「九反九畝二十九歩」

その昔 種子の島民がまだ自前の土地を持てなかった頃

島の田畑はみな大隅国のものであったので その収獲も大隅への税として扱われた
四分六分の取り割りで百姓たちは田を借り小作として働いておったのだ

毎年 税の取り上げを見積もるために大隅から役人が島に渡って来ておった
“竿取り” というて 新たに開いた田畑の広さを測り これを記帳して税収の礎とするためだ

開かれた一町歩ごとに耕作地と定め その年の取り分を次々と決めてゆく・・

しかし 元々 不公平な取り分に苦しい暮らしを強いられておる百姓からすれば なるべく記帳される農地を減らしたい

百姓たちは 普通の農地から離れた所に 税に載らない小さな田畑を作り 自分たちの食い扶持にあてておったのだと

 

牟礼から伊原に至る道の脇に 木陰に隠れるように小さな田が開かれておった

ある年のこと 竿取りに来ていた大隅の役人さんがこれを見留た
これは農地か? 検地せねばなるまいの・・・

早速 検地に取り掛かろうとするが これに気付いた村人たち まぁまぁお役人様 ここは一服と茶を出すやら漬物を出すやら 役人の足止めに精を出す

その間に二三人の男が手分けして葛のツルを探してくると それを畦(あぜ)のあちこちに撒いておき・・

いよいよ 検地という時に 手伝う素振りを見せながら鎌の先でそのツルを引き上げて
「いかん! マムシが出よるわ!」と役人を驚かせたり「こりゃぁ早ぅ外に出んと蛇神さんに祟られるぞ!」と叫んで大騒ぎ

挙句の果てには祠の建つ木の上から「九反九畝二十九歩じゃぁ」と神様の声が聞こえてくる始末

呆気にとられておった役人さんじゃったが・・ しばしの後

「なるほど 九反九畝二十九歩か 神様がそう言われるとなら間違いあるまい」
「なれば これは記帳に足らんのぉ」と台帳を閉じて帰って行かれたそうな

何やら そのお顔は苦笑いじゃったと・・

 

色々と大変な封建制の時代ですが、中にはこういった融通の効くお役人も居たのでしょうかね(笑

次回、引き続き 鹿児島県大隅諸島、お隣の「屋久島」からのお話をお届けする予定です。

 

 

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