海のシルクロード 常陸国金色姫伝説 – 茨城県

ただ白いだけでなく、高貴な輝きを湛えるシルク(絹)の美しさは独特のものです。
近年では紡織技術の発達で化学繊維でも かなり似たような生地を作ることが出来ますが、本物の輝きと品質には中々及ばないほど特別なものと言えるでしょう。

蚕(かいこ)を育て 繭(まゆ)を作り、そこから蚕糸を取る。養蚕の基本であり往古より伝えられた天然由来の技術でありますが、この養蚕、一体いつ頃からあるものなのでしょうか?

実は思いの外 それ歴史は古く、紀元前3000〜4000年頃に既に始まっていたと言いますから、言い換えれば人の文明のかなり初期に萌芽を持ち、人の歴史とともに歩んで来たとも言えますね。

中国の大河川、黄河や揚子江の流域地域で “クワコ” と呼ばれる蛾の一種を人の手で管理・養育し、糸の採取に結びつけたのが今日に続く養蚕の始めだそうです。

 

先日、紙の歴史でも触れたことですが、当時とすれば、言わば究極のハイテクノロジーともいえる これらの生産品は貴重品の域を超えた宝物にも近い存在であり、それらを身にまとったり身近な品として使えるのは極一部の人々、王族や豪商の者に限られました。

時が経ち ある程度安定した生産体制が確立されてからも、その技術は厳重な管理のもとに置かれ、言わば門外不出のトップシークレット扱いであったようです。

紀元前200年頃になって西方との交易が始まると絹は貴重な輸出品となり、西方へ、そして西欧へと伝えられ、やがて後の “シルクロード交易” の確立へとつながってゆくのです。

日本に絹が伝えられたのは西方への交易が始まったのと同じ頃、紀元前2世紀前後、稲作の技術とともに大陸からの移民によるものであるとされています。
当初は一部地域の生産でしたが、引き続き半島経由などでも流入され徐々に中央へとも伝わるところとなりました。

奈良時代を迎える頃には(気候の関係で)北海道や東北の一部を除いて、全国ほとんどの地域で養蚕は定着していたと言われますから、その生産拡大の速さには驚かされますね。

 

さて、こうして日本国内にも広がっていった養蚕技術ですが、現在の茨城県、時の常陸国に養蚕発祥にかかる伝承が残っています。

 

『金色姫』

時は雄略天皇の御世 日本から遠く離れた 天竺(インド)を成す一国に旧仲という国があった

治める王は霖夷(リンイ)といい 家族を大事にしていたが ある時ふとした病がもととなり妻が他界してしもうた

残された王と一人娘の金色は悲しみに暮れたが この忌事につけこんできたのが隣の強国
ぜひ 後添いにと身内の女を充てがってきたそうな

やむなく後妻を迎えるに至ったが この後妻 玉のような姫の美しさを妬んだか それとも元から性が悪いのか 事あるごとに姫をいたぶるのだと

王の居ない隙を狙っては姫を亡き者にせんと謀るので 王もほとほと困り果てた

ある時 王宮の庭が光り輝いているのに王が気づき掘ってみると 姫が息も絶え絶えに埋められているではないか

このままでは いずれ娘は殺されてしまう・・ 思案の挙げ句 王は桑の木で小舟を作らせ それに姫を乗せると 泣く泣く海の遥か彼方へと逃したのだそうな

 

それから 幾歳月経ったのだろう

あるのどかな日 常陸国の豊浦という浜辺で権太夫という名の漁師が網を編んでおった

ふと見ると 波打ちの片隅に見たこともないような小舟が一葉 打ち上げられておるではないか

あわてて駆け寄り 天蓋を外してみると異国の者とはいえ見目麗しい姫がうずくまっておる
助け出し 家へと連れ帰り 女房と二人して手厚く看病したそうな

玉のごとき娘を得たと夫婦して喜び懸命に育て 姫もいささか元気を取り戻したが・・

あろうことか ある時 姫は病を得て 終には亡き母のもとへと旅立ってしもうたのだと・・

 

悲嘆に暮れた夫婦であったが ある夜 権太夫の夢枕に姫が立ち こう言ったのだそうな

「私に食べ物を与えてください 後々 必ずお二人の恩義に報いましょう・・」

目覚めた権太夫たちが 姫の亡骸を収めた唐櫃を開けてみると 驚くことに そこに姫の亡骸はなく 無数の小虫がひしめいておった

これはどうしたことかと思うたが姫の遺言 姫が乗って来た小舟が桑の木であったので その葉をとって与えると 小虫たちはこれを喜んで食べ育っていった

 

ある時 小虫たちは桑の葉を食べることを止め ひたすらうごめくばかり

どうしたものかと考えあぐねておったが また姫が夢枕に立ち

「心配有りません 四度の休眠を経て事成るでしょう・・」

姫の言葉どおり 小虫は獅子、鷹、船、庭と態を変え* やがて繭(まゆ)となった

すると今度は筑波の影道明神が夢枕に立ち 繭から糸を取る技を権太夫たちに教えた

かようにして 日の本に養蚕の幕開けが訪れたのだ

継母が姫にかけた策謀のたとえ、獅子のいる山へ姫を捨てた、鷹の住む山へ捨てた、船に乗せ無人島へ追いやった、庭へ生き埋めにした・・そして、その試練を乗り越えたことへの隠喩と、蚕が成長過程で4回の休眠状態ととることから来ている。

 

昔話の多くはおよそ国内や一地域内での話に終始しますが、この『金色姫』においてはインドから流れ着いた姫を主軸に、まさにワールドワイドな展開となっていますね。

昨年 お送りした ”楊貴妃” の物語も 唐から日本に流れ着いた貴妃を主題としていますが、珍しいながらも こういった、外来の貴人をテーマにしたお話は時折見られます。

見ようによっては「かぐや姫」も 天界・異界からの訪問者であり、そしてそれらは得てして現世に永く留まらないことも、ひとつの悲しい共通点なのかもしれません。

 

上でご紹介したお話は、江戸時代の養蚕家 上垣守国(うえがき もりくに)の著書「養蚕秘録」を元としていますが、これに近似した話を社伝として伝える社が常陸国(茨城県)には三社あり、豊浦のいわれに紐付けて養蚕を奉り ”常陸国の三蚕神社(さんこじんじゃ)” と呼び親しまれているそうです。

現代では誰もが手にすることの出来る ”シルク・絹” の輝きと肌触り、創作ともいえインドと日本を跨いだ海のシルクロードの物語、機会がありましたらご参拝されてみてはいかがでしょうか。

 

”常陸国の三蚕神社”

『 蠶影神社 』 蚕影山(こかげさん)神社(通称)
〒300-4211 茨城県つくば市神郡 2056

『 蚕養神社 』 こがい神社
〒319-1411 茨城県日立市川尻町 2-2377-1

『 蚕霊神社 』 さんれい神社
〒314-0114 茨城県神栖市日川720

 

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