還らぬもの 有間皇子とましららの貝 – 和歌山県

~ 磐代の 浜松が枝を引き結び ま幸くあらば また還り見む ~

( 磐代の浜にある松の枝を結んだ。運よく無事に戻れたならば またこの枝を見たいものだ )

しかし、この願いが叶えられることはありませんでした。
これから間もなく皇子の命は謀略の闇に命を落とすこととなってしまったからです。
そして、皇子が望んだものは ”結ばれた松の枝” に託された誰かとの再会だったのかもしれません。

 

名は ”有間皇子(ありまのみこ)” 孝徳天皇の嫡子でありながら、時の政争・謀略に翻弄され続けた悲運の皇子です。

時とは飛鳥時代、宮中にあって決行された「乙巳の変」、中大兄皇子・中臣鎌足らが皇極天皇の御前にて蘇我入鹿を討ち取り、それまでの豪族による専横体制を打破した革命事件でした。

続く「大化の改新」含めて 天皇を中心とした より機能的な政治体制へと移り変わってゆく大変革の端緒でありましたが、それはいわゆるクーデターであり 新たな勢力闘争の始まりとも言えるものでありました。

専横であったとはいえ安定していた政情、それが突然の武力による喪失、宮中は戦々恐々とした状況であったに違いありません。

皇極天皇は退位し後継を据えることとなりましたが、指名を受けた中大兄皇子は権力簒奪のための革命と問われることを避けるため これを辞退、動静不明確な中、他の誰もが次代の天皇位を受けようとはしません。

結局、皇極天皇の弟であった軽皇子が辞退を押され孝徳天皇として即位、中大兄皇子を皇太子として据えることで政権の安定化を図りました。

 

一応の決着と方向性をみた朝廷は律令制の導入や新法制度の確立など、改新のための作業を進めていきますが、その内情は決して安らかなものではなかったようです。

新天皇として体制を刷新、日本初の元号 “大化” を制定、新都 “難波京” に遷都して新たな世作りに挑もうとしますが、政治の実権を持っていたのは中大兄皇子、しだいに軋轢を生じてゆき、ついに遷都の翌年には飛鳥京への帰還を進言されるに至ります。

孝徳天皇がこれを却下すると、何と中大兄皇子は母である皇極上皇(退位中)や官人の大半、孝徳天皇の皇后(中大兄皇子の妹)まで引き連れ飛鳥京へと還ってしまいます。

只一人、新都の取り残されるような形となってしまった天皇は深い失意の中、翌年には体調を崩しやがて病没されてしまいました・・。

不遇の道を辿った天皇、この孝徳天皇が妃・小足媛(側室)との間に設けた一粒種が “有間皇子” その人であったのです。

 

ここまで述べればお分かりのように有間皇子は孝徳天皇の嫡子であり遺児、つまり皇位継承権を持つ者であり、覇権の完成を目指す中大兄皇子からは目障りな存在と言えたでしょう。

このことは有間皇子本人も熟知していたようで、不遇に喘いだ父の姿を見ていた皇子は、孝徳天皇崩御の後、当然のように訪れるであろう政争に巻き込まれることを避けるために、心の病を装い自邸に引きこもったといいます。 歳も若く自前の勢力も持たぬ中、皇位継承への欲も能力も無いことを示しておきたかったのでしょう。

中大兄皇子ら主導派から睨まれることを避け 醜い政争から離れるため、療養と称して旅に出て湯治に訪れたのが紀伊国 “牟婁の湯” でした。

そして、ここで出会った一人の女性と皇子は恋に落ちることとなります・。。

 

女性の名は “ましらら” 、”真白” を意味する名とされ、たいそう肌の白い美しい媛であったと伝わります。 “牟婁の湯” 現在の “白浜温泉 / 白良浜(しららはま)” に通じる名でもありますね。

この女性の素性も実在性さえも詳らかではありません。伝承の中にだけ生きる存在なのかもしれません。

しかし、この旅路の中で紀伊の女性を偲んで詠まれたと思われる歌も残っており、あながち全てが作り話だとも言えないのです。

ともあれ、出会った二人は瞬く間に互いに惹かれ合い恋に落ちました。
仲睦まじく磐代の浜を二人で歩いたりもしたのでしょうか。

後にして思えば、そのまま当地に根を下ろし牟婁の民となっていた方が どれだけ幸せな人生を送れていたかとも思えます。

されど、皇子も一族を持つ皇族の一員、都に還る日が訪れます。
ましららを前に皇子は一対の白い貝殻の片方を渡し「この貝殻をお互いと思って大切にしましょう、必ず貴方のもとに帰って来ます」と言い 契を結んだそうです。

 

 

都へと戻った皇子は今回の旅にいたく感激し 気を良くしていたのでしょう。
斉明天皇として重祚していた元上皇のもとを訪れると、自らの快気を伝えるとともに “見ただけで病に効する” という牟婁の湯の素晴らしさを謳い、天皇の行幸をも薦めたのだそうです。

報告を喜んだ斉明天皇は牟婁への行幸を決め 中大兄皇子らとともに牟婁湯治の長旅へと出掛けます。
そして、この時を待っていたかのように皇子のもとに忍び寄ってきた影がありました。

蘇我赤兄(そがのあかえ)朝廷内の有力者であり天皇不在の都を守る留守居役でもありました。その赤兄が皇子の館を訪れ 天皇の失政を上げ連ねて革命の必要性を訴えたのです。(実際に皇極 / 斉明天皇は造営好きで民の不満をかっていた)

現代的な感覚で見るならば、そして皇子の置かれた立場を考えるならば、このような成り行きが謀られたものであることは、火を見るより明らかといったところでしょう。

しかし、若さ故の浅はかさか、義憤に駆られたのか、それとも亡き父帝の無念を晴らしたかったのか、皇子は赤兄の虚言を見抜くことなく、それどころか我が意を得たりとばかりに蜂起の意を表明してしまいます。

それから間もなく、手のひらを返すがごとく武装した赤兄の手勢に皇子の館は取り囲まれ “謀叛人” として捕縛されることとなってしまったのです。

 

天皇・中大兄皇子らがいる紀伊の地へ護送され、そこで尋問に付されますが「全ては天と赤兄のみぞ知る 私は何も知らぬ」とだけ答えたそうです。

皇統と生まれながらも、否、生まれたが故に生涯を他人の思惑に翻弄され、ほんのひと時 牟婁の地で巡り逢った束の間の幸せさえも成就に至らなかった有間皇子。

尋問が終わった二日後、京へと返送される途中、藤白の坂(現在の和歌山県海南市藤白神社付近)で絞首され冥府へと旅立ちました。享年まだ十九歳でした。
仕儀さえ無視した この処刑のあり方に そこはかとない闇を感じますね・・。

 

和歌山県海南市 藤白神社 有間皇子 慰霊堂

 

一方、このような始終を知る由もない牟婁の “ましらら” 、幾年瀬待てども皇子の帰る日が訪れるはずもなく・・。

待ち続け、待ち続け、いつしか その姿も見えなくなったある日、白良の浜に残る一対の白い貝殻・・、 二人が常世の国で結ばれた印しであろうと、地元の民によって運ばれたその貝は、現在の白浜町 浄土宗本覚寺の収蔵品として今に伝わるそうです。

 

あらゆる手管を講じて次々と政敵を排除していった中大兄皇子、卑劣の極みのようにも見えますが、こういった権謀術数、政争の闇は この時に限ったものではなく、時代も洋の東西をも越えていつの世にも渦巻いているものなのでしょう。

そこには欲や保身に発する醜さと同時に、”やらなければ明日は我が身” という、どうしようもない人の悲しさと厳しさが垣間見えます。

斉明天皇 崩御の後、満を持して天皇位に即位し近江宮を開いた中大兄皇子=天智天皇でしたが、白村江の戦いなどで苦心した後、継嗣(跡継ぎ)は “壬申の乱” を起こして大戦乱へとつながり、自身の終焉にも暗殺説が根強く残るようなものとなりました。

中大兄皇子の手先となった蘇我赤兄も戦乱に巻き込まれ、敗臣となって捕縛された挙げ句 何処とも知れぬ地に流され一族は没落しました。

 

いつの時代も人は皆それぞれに懸命に生きようともがくものですが、出来ることならば、先ずは生きることの意味、そして生きてゆく上での慎ましさに耳を傾けてみるべきなのかもしれません。

有間皇子が結んだ松の枝には そのような想いさえ込められているような気がするのです。

和歌山県西牟婁郡白浜町 ましらら媛像

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