海の神徳 タコの守護篤き岸和田の町(後)– 大阪府

岸和田城、 秋には “岸和田だんじり祭” 華めく城下町を見下ろす当地のシンボルであり、続日本100名城にも選出されています。 同時に南大阪における観光地でもあり休日などには訪れる人々も多く、家族やカップルで賑わう光景にのどかなひと時を感じます。

現在 目にすることが出来る雄美な佇まいの岸和田城は、南北朝時代、この地の支配権を持っていた山名氏清(やまなうじきよ)の命を受けた信濃泰義(しなのやすよし)によって建てられたものを、安土桃山時代に羽柴秀吉らによって改・増築されていったものだと言われています。

実はこの岸和田城以前、天皇を奉じて波乱の人生を生きた楠木正成 縁の城があったとされており、一説に正成に仕え築城と町開きに関わった岸和田治氏(きしわだはるうじ)の手になるものだったそうで、その場所は現在地よりも500メートル程東、当時小高い丘だったといわれ、その名残りが岸和田の名とともに今は町中となった一画に石碑として残っています。

鎌倉の終わり、室町・戦国時代を通して、この岸和田の地も畿内と紀州を結ぶ重要拠点として数々の戦乱に見舞われ、時代に翻弄されてきたのでしょう・・。

 

街中にひっそりと立つ岸和田古城跡の石碑

 

波の中から現れた大蛸とお地蔵さまに、大嵐の難を鎮めてもらった岸和田の人々。
長老の思い出話から ずっと昔にもお地蔵さまにまつわる逸話があったことを知らされますが・・

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蛸に放り込まれた お堀の中のお地蔵さま

岸和田を大難から救うてくれたありがたい御仏を何とか引き上げたいが 勝手に堀に入り込んだりしては どんなお咎めがあるかもしれぬ

皆の衆 お堀に向かって只々手を合わせ それぞれに念仏を唱える他なかったそうな

 

さて それからも時は流れた

お地蔵さまの因縁を伝えた長老もずっとずっと昔になくなり 大蛸に乗ったお地蔵さまが嵐を鎮めたことを知る者も今はほとんど残っておらん

人というものは気楽なもので 辛いことがあっても時とともに忘れてゆく
ここのところ岸和田は平穏だったので なおさらだったのかもしれん

今ではお堀に向かって手を合わせる人も見いひんようになってしもうた

 

だけども岸和田に立派なお城があるように戦の火はあちこちで燻ぶっておったようや

ある頃からお城の侍衆は慌ただしく出入りするようになり戦支度をはじめよった

村の者も町の者も右往左往 どうなることかと恐れおののいておるうち瞬く間に戦火は広がり 大勢の怪我人や死人を数えるようになってしもうた

そしてある日 山を越えて紀伊の兵どもが押し寄せて来たのだと

岸和田の兵の抵抗も虚しゅう悉く討ち取られ ついに岸和田のお城はその周りを敵の兵に取り囲まれてしもうた

風前の灯火とは正にこのこと ああこれで岸和田の町もお終いかと誰もが思うた

 

ところがどうであろう その時どこから出でたのか一人の それもとても常人とは思われへん大柄の僧兵が現れた

「おい! あの者は何者じゃ! 岸和田の兵ならば討ち取れ!」

敵の将はその姿を捉えるなり叫んだが その時にはもう僧兵の持つ大木のような薙刀が振り払われておった

稲妻のような一振り 一挙に二十人三十人と撃ち飛ばされる
あまりの出来事に敵兵どもはうろたえ散り散りに崩れてゆく

「ええい!怯むな! 数で抑え込むのじゃ!」

将は慌てて激を飛ばしたが あっという間にその将も飛ばされてしもうた

 

それどころか いつの間に現れたのか辺り一面 無数の大蛸が現れ次々と敵の兵に絡みついては動きを封じてゆくではないか

金剛のごとき剛力 雷神のごとき速さで見る間に敵を追い散らす僧衣の大男
そして数えきれないような不気味な大蛸の襲来
紀伊の兵どもは総崩れとなり命からがら逃げ帰ったのやと

 

助かった すんでのところやったが岸和田は救われたのや・・
離れた丘や物陰から見ていた人々は そろそろと姿を現した

最早これまでと腹を括りながらも意外な成り行きに 固唾を飲みながら お城から見ていたお侍たちも胸をなでおろした

「あの僧に我が地は救われた! 城にお通しして功をねぎらうのじゃ!」

喜ぶ殿様の命に早速 家来たちが探し回ったが どうしたことか
あれほど目立つなりの大男が どこにもその姿を見つけられん
通りを埋め尽くしていた大蛸もどこへ行ったのか一匹もおらんではないか

 

あの僧兵の大男は誰だったのか 無数の大蛸は何だったのか

岸和田の危難を救うた この超常にようやく昔の言い伝えを思い出しのやと
そうや あの時のお地蔵さまが今度も岸和田を助けてくれたのや

人々は故事のいわれを殿様に伝え お許しをもらうと総出でお堀をさろうた

すると一体の小さなお地蔵さまが出てきたのやそうや

数百年にわたって岸和田を護ってくれた慈悲に皆して手を合わせ
お地蔵さまの故郷 天性寺さんへと大事にお祀りしたのやと

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「蛸地蔵」というユニークな名で知られる岸和田市の名刹の逸話でしたが、そもそも何故 “蛸” なのでしょうね? もしかして お地蔵さまが海におられる時に手懐けられたのでしょうか・・

ともあれ、天災の回避や戦況の逆転劇などを含む “ご神徳もの” としては中々ダイナミックな内容の伝承でした。 暗に過ぎ去った故事を安易に忘れてはならないという訓意をも含んでいますね。

 

岸和田城を襲ったとされる紀州の地域は、古来は熊野信仰にもとづく神性の高い不思議の地、戦乱の世には独自性の強い風土とされていました。 歴史を通じて畿内や政権とは微妙な関係にあり、大阪と紀州の中間点でもあった岸和田はついぞ戦乱にまみれることも多かったようです。

江戸時代になって御三家 / 紀州徳川家が置かれましたが、それでも憂い残る地として長い間 幕府より危惧されていたようで、一説に岸和田城が改築を重ねながら存続したのは紀州への警戒の現れであったのではないかとも言われています。

戦乱の世が過去のものとなり平和を謳歌出来る現代の岸和田城、だからこそ故事が伝える “感謝と慎み” の心を忘れずに明日に向かって生きていきたいものですね。

 

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