海の神徳 タコの守護篤き岸和田の町(前) – 大阪府

タコ / 蛸 美味しいですよね。刺身にしても煮物にしても独特の食感と淡白な味わいで日本食の一端を担う食材となっています。 ”タコワサビ” や ”タコキムチ” など お酒のあてにももってこいで私も大好きです。

ご存知のように海外(特に西洋・中東圏)では食材とみなされることが少なく、”デビルフィッシュ” という名とともに古くから忌避されてきました。 古来、北欧系神話の影響から船を転覆させ人を食らう化け物としてのイメージが災いしたのでしょうが、どの国でも全く食されていないわけでもなくヨーロッパにおいても、スペインやイタリアなど南欧諸国などではレストランなどで供されることもあるのだとか。

反面、日本においてタコの食文化の歴史は古く、それは有史以前・2000年前にも遡るとの説もあるほどです。 世界のタコ漁獲全体の60パーセント、国内水揚げ量 約3万数千トン(+海外からの輸入)を日本だけで消費していることから見ても、いかに日本人とタコのつながりが深いかを感じさせられますね。

 

さて、今回の記事は大阪から、
大阪といえば “ボケ・ツッコミ”・・ではありません・・。今日はタコのお話なので・・w。

大阪食文化の一端、「大阪に行ったらたこ焼き」のイメージさえあるほど、大阪とたこ焼きには切っても切れないつながりがあります。 元々は昭和のはじめ頃、大阪市西成区の「会津屋」創業者 遠藤留吉氏が、それまでにあった「ラジオ焼き」や「玉子焼*」を参考に開発、売り出したものであったようです。 (*玉子焼=明石焼き 卵焼きとは別のもの)

つまり ”粉もの” としては意外と後発であったのですが、その美味しさとファストフードとしての手軽さが受け普及の環を広げ、”とんかつソース” との絡み、メディアで採り上げられたことなどによって、その名を全国的に広めてゆくことになり、大阪のソウルフードとさえ言えるものになりました。

 

西洋では「デビルフィッシュ」なる悪魔の化身であっても、日本人のタコに対する感覚は むしろ “ユーモラス” であり、あまり悪いイメージがつきまとうことはありません。
大阪府の都知事を務めた故 横山ノック氏も、かつてタコのイメージを自らの芸風に取り入れていましたね。

何くれにタコに因縁深き大阪・浪速の地ですが、その名「なにわ」「浪速」「難波」「浪花」と記されるように、浪・波、つまり大阪湾に深く基づいた地名となっており、古来「茅渟(チヌ)の海」とも呼ばれた、漁業資源豊かな海に恵まれた土地ならではの命名でしょう。

大阪湾の沿岸地域、大阪市内から20km余り南下した場所にある「岸和田市」
勇壮な「岸和田だんじり祭」で知られていますね。 岸和田城を海辺に頂き、今もなお昭和の面影をそこここに残しながら大阪のベッドタウンとしての機能をも果たす長閑な町ですが、ここを通る南海電鉄・本線に奇妙な名前の駅があります。

「蛸地蔵駅(たこじぞうえき)」 さらに海側にある「護持山 天性寺」(通称:蛸地蔵)に因んだ駅名なのですが、何故に蛸地蔵? ・・今日はこれにまつわる伝承をお伝えしましょう。

 

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いつの世の話なのかは ようわからん 和泉の地に大きな嵐が訪れようとしておった

空をどす黒い雲が覆いだし 木々を押し延べながらびゅうびゅうと雨風が吹き抜け
細々と建てられた民家はもとより岸和田のお城までギシギシと音をたてて揺れる始末

町の者も村の者も どうなることやらと肝を冷やしておったのやと

 

その時 浜辺の方で一人の男が海の方を指差して何やら騒いでおる

なんじゃなんじゃ船でも返ったか と村人たちが駆けつけてみると

その浅瀬に見えたものは それまで見たこともないような大きな蛸の姿であった

皆その大きさに驚いたが それにも増して奇妙だったのが
その蛸 ずんぐりとした頭の上に何か乗せておる

よくよく見るとそれは何と一体の地蔵さまではないか

「どういうこっちゃ なんで蛸の上に地蔵さまが乗っとるんや」

集まった村人たちは顔を見合わせて話しておったが あまりの出来事にどうして良いのかもわからん

 

 

ところが しばらくするうちに蛸の頭に乗った地蔵さまが ほのかに光りだしたではないか

どよめく村人たちをよそに その光は段々とその輝きを増していったそうな

するとどうであろう その光に掻き消されるように空を覆っていた黒雲が消え失せ
大粒の雨は霧雨となり やがて恐ろしい風もどこかへ行ってしまったではないか

岸和田のお城も何事もなかったかのように静まっておる

「おぉ これこそ地蔵さまの霊験じゃ! 地蔵さまのご加護で岸和田は救われたわい!」

皆 手を取り合って喜んだのは言うまでもない 空にはお天道さんが秋の日差しを恵んでくれておった

 

ところで お地蔵さまと それを乗せた蛸は浜辺をのそのそと這い上がり あろうことか そのまま町の方までずるずると這っていったそうな

そして岸和田城の堀の所まで来ると 頭の上に載せていた地蔵さまを ひょいと堀に投げ込み
いつしか自分もその姿を消してしまっていたのやと

皆 その不思議さと畏れ多さに近づくことも出来ず事の成り行きを見守っておったが・・

その時 村でも最も歳のいった爺さまが口を開いたのやと

「思い出したわ! あれは まだ子供の頃 わしの爺さまから聞いた話やった!」

「その爺さまさえ まだ子供の頃 この和泉の天性寺に荒くれ者が押し入って散々に暴れた挙げ句 寺の御本尊さんをも壊そうとしたのやが頑として壊れず 業を煮やした罰当たりどもは ついに御本尊さんを海に放り込んでしもうたのだと・・」

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突然の長老の話に驚く村人たちでしたが、その話が本当なら海の底で何十何百と時を数えながらも、お地蔵様は岸和田を見守っていてくれたことになります。

ありがたや ありがたやと仏のご利益に手を合わせる人々でしたが、当のお地蔵さまは既にお堀の中、勝手に入るわけにもいかず、この不思議な出来事は人伝に語られるのみとなったそうです。

しかし、頭の上にお地蔵さまを乗せた蛸のお話はこれで終わりではありませんでした・・。

南海電鉄・蛸地蔵駅

 

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