悲願を賭して成就した日本最後の城 ー 京都府

残念なことに人間というものは複数、もしくは一定数以上の人数に増えるとともに諍いを起こす生き物でもあるようです。

自らを主として生き、生まれ持った生存欲求がある限り それはやむを得ないことでもあるのですが、往々にしてその諍いは限度を越し、時に多くの犠牲を伴う戦へと発展してしまうのは人間の背負った “業” というものなのでしょう。

それでも人が人として独りで生きてゆけないことは認知のことであり、人は家族を増やし仲間と集い集落を形成します。

沸き起こる戦に備えるために集落の周りに柵を張り巡らし武器を整え戦に備えました。

時とともに、そして集落の大規模化とともに その設備は専用化され、より効率的に戦闘に特化した要塞 そして城郭へと発展してゆきますが、そのことは同時により大規模な戦と犠牲者が発生することをも意味します。

人間の歴史とは “共存” と “闘争” が同時に存在し絡み合ってきた歴史でもあり、それは現在に至るまで未解決の “永遠の課題” でもあるのです。

 

歴史上、日本の国にどれだけの “城” が存在したのかは明確ではありません。

上記のように先史ともいえる時代のものは言うに及ばず、歴史的に記録が残っているものでさえ、現在の我々が思う “城” のイメージには遠く及ばない小規模で簡易なものも少なくないからです。

いわゆる “城郭” を持たず、土塁や石垣 そして低層の物見櫓だけで造られた “砦” まで含めると数万の数にも上るのだとか。

大規模な戦争が繰り返し行われた戦国時代にあっては、より効率的な戦闘を行うため、少々規模の大きい砦ともいえる「山城」が大半でありました。 構造的にせいぜい数十年の耐用年数であったため、当時の姿そのままに現存するものは皆無に等しいでしょう。

 

安土桃山時代も後半となり戦争よりも領国の統治・安定が求められるようになると、平地に建てられる「平城」が主となり、有事に備える軍事施設としての機能以上に、統治の為の機能や領国の象徴としての意味合いがより強くなりました。

長期的な運用が求められ構造はより堅固に、多機能性を実現するために規模はより大きく、象徴性を高めるために多層天守をはじめとした様々な技法が用いられ、その豪奢な出で立ちとともに現在の私たちがイメージする “お城” が確立されてゆくのですが・・。

織田信長に仕え戦功を積み上げてゆく羽柴秀吉が、戦乱の最中に重要拠点として築き上げた「墨俣城(一夜城)」、琵琶湖畔 “今浜” の地に領地を与えられ町づくりに重きを置いた城として造られた「長浜城」、ついに天下人となり豊臣の名とともに その栄華と太平の世の象徴として君臨した「大阪城」など、城郭の歴史を見ているようで面白いですね。

 

さて、現在一般に訪れることの出来る “お城” は 200城余りだそうで(城郭の定義による)、その中でも江戸期前後からの天守が残る「現存天守」は12城といわれ、今日 私たちの前にその勇姿を伝えてくれています。

日本最古の “お城” は長野県松本市の「松本城」愛知県犬山市の「犬山城」滋賀県彦根市の「彦根城」、また福井県坂井市の「丸岡城」などが挙げられていますが定説を得ていません。

しかし、最新の・・と言うより “最後のお城” は、はっきりしています。
京都府南丹市の「園部城」が落成したのは何と明治2年8月、侍の時代が終わった後、日本最後の城として知られているそうです。

 

安土桃山時代、この地の領主として荒木氏綱が小麦山に園部城を構えていたという話が残っていますが、これについては信憑に足る資料が無く それが園部城と言えた確証はありません。

時流れて江戸時代となり幕藩体制構築の中、園部藩が据えられ 小出吉親(こいでよしちか)が3万石で入府すると宍人城(ししうどじょう)に暫定的に入城します。
その後 新たに小麦山周辺を整備して居館としての園部城を計画しましたが、元々外様大名であった小出氏には、江戸幕府から城としての築城を許されませんでした。

2年余り後、完成した館は豪壮な惣構えの立派なものでしたが、天守や櫓を持たず構造制限の掛かった あくまで “陣屋” としての居城であったのです。

 

家格を低く見做されながらも、幕末に至るまで一度も国替えに晒されることもなく、実直にその領分を勤め上げましたが、その幕末の動乱は小出氏にも転機をもたらしました。

1864年頃の京都は勤皇派と佐幕派による数多の事件・騒乱が渦巻いており容易ならざる状態でありました。 当時、京都見廻役として京内の治安にあたっていた小出氏は緊張を強いられる職務でありましたが、これを契機に「万一の有事に天皇を匿い保護するための城」として、園部城の大規模改修を幕府に対して陳情したのです。

はじめ幕府はそれでも改修を認めませんでしたが、いよいよもって緊張高まる世情と重なる陳情の末、ようやく慶応3年(1867年)10月に幕府よりの内諾を得ます。

ところが 慶応3年10月と言えば「大政奉還」がなされた月・・。
つまり、城改修の目処が立った直後に幕府は終焉を迎え、せっかく降りそうになった改修許可は喪失の憂き目となってしまったのでした。

 

しかし、大政奉還の直後からいち早く恭順し、残り火くすぶる世情において新政府軍への従軍をも果たしたこともあり、天皇の保護と騒乱時の京都平定を図る新政府から慶応4年 / 明治元年 「帝都御守衛」の大義のもと、ついに城改修の正式許可を得たのです。

時逃してはならぬと始まった大改修工事は、翌 明治2年8月に上棟されるまで突貫で行われました。 小麦山の三層天守をはじめとして数カ所に及ぶ櫓門や堀の増築などを施し “園部陣屋” は紛うことなき “園部城” へと生まれ変わったのです。

 

一外様大名から忍従の時を越え、江戸期 260年間を通して受け継がれた 園部藩小出氏の悲願はこうして達せられたわけですが、幸か不幸か 新しい園部城が落成した頃から徐々に世は落ち着きを取り戻してゆき、園部の地が戦乱にまみれることは一度もありませんでした。

明治4年に園部藩は園部県を経て京都府の一支庁に、そして明治5年には大勢が安定したと見た明治政府をして、城の多くが破却処分となったのです。

城の跡地には小学校が建てられ、多くの府民・国民に教育が施される場所となりました。 現在、この地には遺構建築物を残しながらも「京都府立園部高等学校」が立しており若人の声がこだましています。

© Wikipedia / Suikotei 様

 

華々しい逸話には恵まれぬものの、”日本最後の城” として名を残すこととなった「園部城」は、京都府から「暫定登録文化財」の指定を受けており、”模擬天守” ながらも当時の面影を復興するべく整備が進められています。

大改修時から残る櫓門などを検分すると “京都守護” の大義にあったにもかかわらず、あまり戦闘に適していない造りになっていたことも判明しており、当時、既に戦闘実務よりも悲願達成に重きを置かれていたような面影さえ漂わせているようです。

豪奢で趣深い櫓門が校門となっている園部高等学校も珍しい眺めと言えますね。
ひと目見ただけでは決して学校の校門と思えないでしょう。

 

ともすれば 歴史的な逸話や落城時の非業な物語など、戦国の世の大舞台として語られることの多い “城” ですが、中にはこういった珍しい歴史を刻んだ城もあるということですね。

園部町には町のそこここに城下町にまつわる遺構や古くからの町家、日本唯一、菅原道真公存命中の天満宮「生身天満宮(いきみてんまんぐう)」などもあり、見所も少なくありません。 ちょっと切り口を変えて訪れてみる歴史探訪もたまには面白いのではないでしょうか。

 

『 園部城(園部城跡)』 京都府南丹市園部町小桜町

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