度会県って何? 全国で300県越えって? – 三重県

療養中につき本記事は2018年12月13日の記事の再掲載記事となります。 ご了承下さい。

「また会う。たびたび会う。 復活 度会 會 県 縣(わたらいけん・旧漢字体)」
今年 8月20日、ポジティブなキャッチコピーで話題の一石を投じた三重県
度會縣 (以下、度会県)とは幕末〜明治草創期にかけて現在の三重県(全体 後に南部)に存在した「県」のことを言います。

もう少し正確に言うと1868年8月に度会府として開設、翌1869年8月度会県に改称、周辺地域との衆参離合を経て1876年4月に三重県に統合されるまで約8年近く伊勢地域の行政区分として存在していました。

本年2018年、明治維新から丁度150年という節目に合わせて 三重県では地域の認知度向上、交流の増進、そしてそれらによる活性化を目指し「度会県」をキーワードにプロジェクトを立ち上げ「復活 度会県」を宣言。
三重県にゆかりの有る人無い人問わず(バーチャル上の)県民登録を募集、県民証や広報の発行などとともに地域への移住を促す取り組みや 隠れた名所を紹介するイベント、こだわりのお米づくりスタートアップなど数々のプロジェクトを先導してきました。

当初、目標としていた年内の度会県民登録者数500人は早々にクリアし、今月中にはその倍近い900人を越える勢いだそうです。
実際のリアル移住者を増やすにはまだ越えるべきハードルがいくつもあるでしょうが、アクションを起こし行動と努力を重ねる官民一体型のプロジェクトの先には必ず光があることを願って止みません。

 

冒頭で明治維新にともなう新県設置のくだりを書きました。これは多くの人が知る“廃藩置県”の話しであることは言うまでもありませんが、実は現在 行政区分となっている“1道1都2府43県”は“廃藩置県”の一度の政策で出来たものではありません。
現在の形に落ち着くまでは多くの政令と困難を排する努力を必要とされたものでした。

幕末、諸外国の圧力に屈し崩壊していった幕府に替わり誕生した明治政府は、日本の国が 並み居る列強諸国の餌食とならず、一日も早く欧米と肩を並べられる国となるため“富国強兵”が喫緊の課題でした。

しかし、そのためには ほぼ独立行政状態であった旧来の藩制度を根本的に改め、国一体、中央政権制とせねばなりません。
そのために1868年施行されたのが“府藩県三治制”という制度でこの時3府41県が誕生したのです。
ところが、この時点でまだ多くの旧来藩が残っておりそれらは依然として独立性が高かったため、その行政権を集権化するため翌1869年に行われた“版籍奉還”
そして、これらの集権化を決定付けるため2年後の1871年7月に半ば強制的に布告されたのがいわゆる“廃藩置県”です。

“廃藩置県”ではそれまで残っていた藩籍を単純に全て県に置き換えたために、その数何と3府302県にものぼってしまいました。中央政権統制にはいくら何でも多すぎますね・・
また各県ごとの地勢差や人口比、経済力など大きな偏りが残っていたため わずか半年後の同年11月に多くの県を統廃合、3府72県まで集約を推し進めたそうです。

その後も幾度の再編成を経て現在の“1道1都2府43県”に至るわけですが、その間には尋常でない困難を何度も乗り越える必要があったようです。各地住民の生活の利便性、分水、利権的な経済圏、住民感情など考えなければならない事はそれこそ山のようにありましたが“富国強兵”が何よりの急務であった時代の変革ゆえに多くの軋轢を生む事となってしまったようです。

 

侍は消え去り見たこともない新しい文化がどんどん流入される。
昨日までの県名が今日は新しくなり数カ月後にはまた変わる。
当時の西洋の人が残した言葉に「日本の最近10年はヨーロッパの100年に匹敵する」というのがあるそうです。
まさに燃えたぎる るつぼのような時代でもあったわけですね・・

今はそんな激動もはるか過去の事となりましたが、その時代の名残りはそこここに残っています。 今後、機会を得て記事に織り込められればと思います。

「また会う。たびたび会う。復活 度會縣」 公式ホームページ

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