妖かしの姫は今日も天楼で朧に微笑む(後)- 兵庫県

古に “姫路” の地は「日女道」または「日女路」と書き、城山である姫山を「日女道丘(ひめじのおか)」と呼んだそうです。 播磨国風土記において神々の流した 蚕子(さんし・蚕糸(絹糸の道具?))が流れ着いた場所であり それを “ひめじ” と読んだのが そもそもの始めなのだとか。

その始めから “日女神・姫神” との関わり・由緒を持つ姫路の地、そして その丘に建つ城、前編で登場した「長壁姫」とは 果してこの姫神との関わりを持つのでしょうか。

 

「長壁姫」の話が一般に知れたのは江戸時代になってからと言われています。(「諸国百物語」1677年「甲子夜話」1800年代) これらの書物からは当初、刑部姫という名さえ現れておらず、一種の化け物のようなものとして扱われていたようです。 一般に流布して広く知らしめる書物としては読み手の興味を惹きやすい内容が優先されたのでしょう。

江戸も安定期に入ると上方に高い天守閣の有用性は薄まっていき、それまでの政務や物見の実用からも遠ざかっていきました。 特に上層階は利便性が悪いため一部の儀礼や特別な催しに使われる以外は、ほとんど倉庫程度にしか使われていなかったようです。

つまり、城の最上階という普段滅多に使われることのない ”開かずの間” にも比する場所は、人々の好奇と流言を誘う条件を持ち合わせていたとも言え、そこに住まう者 すなわち人智を超えた異界の者・もしくは魑魅魍魎の類という感覚が当てはまったのでしょう。

 

とは申せ、この話が何の根拠もない寓話や伽噺であったかというと・・さにあらず。
その元となる “長壁神社” は、姫路城が築城される遥か以前からこの地の産土神として鎮まっていたといわれ、前編の話の他に以下のような伝承が残っています。

 

ーーーーーー

安土桃山時代も末、関ケ原の合戦で天下の趨勢を手にした徳川家康の命により初代 姫路藩主となった池田輝政。

52万石の所領を得て領地に入府した輝政は早速に姫路城の大規模な改修に取り掛かります。(それまで3層だった天守を破却し5層6階へと改築、他の設備も改修と新造) 現在見ることの出来る壮大な姿となりました。

しかし、落成も成り一族の暮らしと城下の治世が始まる頃になると、輝政の周りで次々と不可解な事件が起こることとなり、それは 元々当地に在ったにもかかわらず 城の工事の折に城下へと移された明神の祟りだと噂されるようになってしまいます。

当初、取り合わなかった輝政でしたが怪異は収まらず、やがて輝政自身が得体の知れぬ病に侵されるところとなったため、比叡山より阿闍梨 明覚を招聘し病魔退散の祈祷を行わさせたのですが、この時 恐るべき霊異が現れ祈祷を打ち壊してしまったのだとか。

ついには輝政の夢枕に女性の霊異が立ち「我はこの地を統べる長壁の神なり、この城内に社を建て我を祀るべし」と告げたと・・、さすがに恐れ入った輝政が神託のとおりにすると病はたちどころに快癒し・・以後、池田家は長壁の神を守護の神として奉ったのだそうです。

ーーーーーー

池田輝政

 

史実と照らし合わせて見ると、池田輝政の姫路城改修落成が1608年(慶長13年)その後、輝政が病に伏したのが1612年(慶長17年)(中風であったと言われています)なので、その頃の成り行きを元に広まった話だと思われますが、では 肝心の「長壁姫」、元々の地主神の正体は何なのでしょうか・・?

今に伝わる奇譚では狐狸妖怪のように言われ、そのように描かれた絵も残りますが、上でお伝えしたように その多くは江戸期の読み物・演物としての描かれ方です。

現存する最も確かな論拠となるのはやはり城内(明治12年からは文字通り長壁姫の居た最上階に)をはじめとして姫山周辺地域三ヶ所に鎮座する「長壁神社」でしょう。

 

この「長壁神社」の主祭神は 刑部親王(おさかべしんのう)そして配神として、その娘である「富姫」が祀られています。それぞれに「姫路長壁大神」「播磨富姫神」と神名を成されています。

型どおり考えるならば、この「富姫神」こそが「長壁姫」のモデルなのかと思われますが、残念ながら「富姫」に関しては詳らかに足りません・・。

では 姫路長壁大神 たる刑部親王とはどういった方なのでしょうか・・

 

刑部親王は、他戸親王(おさべしんのう)とも表され、第49代 光仁天皇の皇子であり ゆくゆくは天皇位を継ぐ人でありました。

しかし、立太子(正式に皇位継承者として認められること)した翌年、突如として産みの母(光仁天皇の后)井上内親王 に呪詛の嫌疑がかけられ、内親王ともども皇族の地位を剥奪された挙げ句、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)に流されその地で没するという悲劇に見舞われました。

その没し方にさえ巷で訝しがられる これら一連の事件、政争にまつわる藤原式家の陰謀が影にあったのではないかと考えられていますが定かではありません。

ともあれ、怨霊と化して政庁に災いを成したと伝えられるほど 不実で非業であったこの事件、他戸親王、井上内親王 にとどまらず一族の苦しみや悔しさは並大抵のことではなかったでしょう・・。

 

「富姫」に関しては詳らかでないと書きましたが、兵庫県神社庁の長壁神社案内文では次のように記されています。
『 富姫はその皇女である。幼き頃より、永く姫山の地に住まれ、ここで逝去された。以後二人は、姫山の地の守護神として、この処に祀られた。代々の守護職、国司から厚い保護を受け、一般の人々からも厚い尊敬を受けた。』

現代研究において 他戸親王に娘がいたことは考え難いのですが、もしこの王女もしくはこれに代わる妹姫が存在したとして、母や兄の凋落の悲劇は「富姫」の人生にも大きな影響を与えていたかもしれません。

皇族を離れる大事・大難、肉親を奪われた憎しみを超えて、自らが過ごすこの地で、生涯の安寧と住まう地の平和を願って生きていったのでしょうか。

その想いが大きくなりやがて当地の守護霊と結び、兄 他戸親王とともに祀られた「長壁神社」をして、後の千年に渡る霊験を残す神となったのならば、多くの逸話を残す「長壁姫 / 刑部姫」の元となったとしても、あながち間違いではないと思うのですが・・・。

 

「長壁 / 刑部」の名については、古代氏族 “刑部氏” にまつわる 第19代 允恭天皇の后であった、忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)の存在も「長壁姫」伝説に関連しているのではとの考察もありますが、それはまたの機会とさせて頂きたいと思います。

姫路城にお出での際は、天守最上階の「長壁神社」、市中「ゆかた祭り」で愛される「長壁神社」なども訪れ、古代に続く謎とロマンに思いを馳せて頂ければ、お城観光の一興となるかもしれませんね・・。

 

← 妖かしの姫は今日も天楼で朧に微笑む(前)

過去の故事・伝承記事一覧

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください