三猿鎮める地に日本一の山がゆく(後)- 石川県

中世日本の大乱であり その後の戦国時代の端緒でもあったとされる “応仁の乱”、国を二分しての大戦でありながらも11年間の長きに渡って慢性的に続けられたためか、文明9年(1477年)に戦が集結した時も、事実上の西軍解体の流れの中で勝敗の曖昧なまま、敗退勢力への咎も特に無いままという何気に腑に落ちない幕引きとなりました。

結果的にそれは不安定な世情を助長し、やがて “下剋上” の義よろしく日本全土に渡る戦国の世を招いたわけですが、こうした動乱の流れが加速してゆく時代 七尾を含む能登国を治めていたのが 畠山 義統(はたけやま よしむね)でした。

義統 は幼くして父を亡くし 祖父の後見を受けながら家督を継ぎましたが、治世統率と文事芸術の両道に通じた人であったようです。

長く京の都で将軍の側近として仕えていたこともあり、応仁の乱後、能登国に帰国した後も手際良く内政を固める傍ら、荒廃した都から義統を頼って避難してきた文化人を数多く庇護したことで、一時は “北陸の小京都” と呼ばれるほどの文化繁栄を能登にもたらしました。

前編からお伝えする「青柏祭」も元々は青々とした柏も葉に神饌を載せて献上したことからその名が残り、一説には この義統の治世に始められたものとの伝もありますが今日詳らかでありません。

さて 青柏祭伝承・人身御供、山の神の正体を知り、娘の命を救わんがため一路 越後国を目指した久平、その後は・・

 

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未だ日が暮れには寒さも残る海沿いの道を辿り 一路越後国を目指す久平

娘を贄に出さなければならぬ祭まで日も知れている
一刻も早く “しゅけん” を探し出し あの山の神を名乗る物の怪を退治してもらわねば・・

休む間もとらず寝る間も惜しんで歩きに歩き続け ようやく越後に入ると誰彼かまわず声をかけた

「しゅけん様を知らんかね しゅけんという名を聞いたことないかね・・」

男にも女にも老いた者にも 果ては幼子までつかまえて問い続けた

されど 何ひとつ誰一人として “しゅけん” の名はおろか それらしき者の話すら出てこない

唯一 奥山深くに誰もその姿を知らぬ霊厳の言い伝えありとの話あり

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最早 祭に間に合うとも思えぬが ここに至ってはその話を頼りとする他ない
久平は奥山を分け入りさらに奥へ奥へと踏み入っていったそうな

しかし 草を分けて谷を覗き如何な木立を探ろうとも 霊厳の人などどこにも見つからぬ

最早 万策尽きたのか もう一度その顔を見ることさえ叶わず明日に娘は逝ってしまうのか

どうしようもない己の不甲斐なさ侘しさに 久平は慟哭のごとく声を上げた

「しゅけん様! しゅけん様! お願いでございます! どうか出てきてくだされ!」

声は木立を抜けて山に吸い込まれるように消えていった・・

日も山の向こうに沈み隠れてゆく これまでか・・ 膝を落としてうなだれる久平

その時 深い深い緑の闇の彼方から一陣の風が吹き抜けたかと思うと 突然 久平の前に何かとてつもなく大きな白い影が立ちはだかった

「儂を呼んだのはお前か・・」

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それは 牛さえ赤子に思えるほど大きな そして真っ白な狼(大口真神)であった

あまりのことに肝を抜かれた久平であったが 今はこの機を逃すわけにはいかぬ

「あ、貴方が しゅけん様 か・・」 久平はこれまでの出来事を話し どうにか娘の命を助けたいと訴えたそうな

「なるほどな・・ お前の訴えはよう分かった」 草木を震わせるごとき重い声で しゅけん は応え話しはじめた

百年もの昔 唐の国から三匹の猿神がこの国に渡ってきた
そ奴らは この地に居座ると 民に狼藉を働き 娘子を喰らう乱行を繰り返したので 山に鎮まっていた自分が成敗に及んだ

しかし 三匹の内 二匹までは噛み殺したものの 残る一匹は その時取り逃がしてしまったのだと

「まさかに能登の地に隠れておったとはの・・ されば お前の願い聞き届け これより邪の神退けてくれようぞ! 時も無し さあ我が背に乗るが良い!」

久平をその背に乗せると しゅけん はふわりと浮き上がり その後は一足跳びとばかり空を蹴り海の上を駆け抜けて その日の晩のうちに七尾にまで着いてしもうたのだそうな

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娘の代わりにその着物を掛けて 御供の唐櫃に入り山神に供えられた しゅけん
舌なめずりしながら櫃を開けた猿神の驚きは如何なものであったろう

その日 七尾の空は雷鳴が轟き風雨激しく荒れに荒れたそうな

日も傾き 雨も風もが穏やかになった時 人々は猿神が成敗されたことを知った

されど 猿神も死にもの狂いだったのであろう しゅけん も深い傷を負い冷たい骸となっていた

里の悪因を祓い 安らぎをもたらしてくれた しゅけん を里人は手厚く弔い

同時に三匹の猿神による祟りを避けるために三台の山鉾を曳いて その霊を鎮めたのだそうな

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以上の お話が今に続く青柏祭の始まりとして 七尾の地に残る伝承です。

神話や昔話のお好きな方なら お気づきでしょうが、御供の娘に代わって櫃や輿に入り悪霊を討つというモチーフは退治譚の代表的ともいえる形で、尚かつ女性の着物を纏って敵の目を眩ますのはヤマトタケルの神話をはじめとして よく見られる攻略法ですね。

父 久平の必死の努力が実って娘は助かり七尾に平和が訪れた喜ばしいお話なのですが・・

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只、このお話、どこか微妙に消化不良のような読後感が否めないのですが如何でしょう・・。

そもそも この話の中で最も活躍し、事態の解決に力を発揮したのは言うまでもなく “しゅけん” そのものなのですが、命を賭してまで猿神退治に臨みながら「手厚く弔われた」以上の話しが出て来ません。

「青柏祭」の執行「七尾 大地主神社 (おおとこぬしじんじゃ)」の摂社 “登口神社” が しゅけん の鎮魂社であるという説もありますが判然としませんし、何より(いくら祟りを避けるためとはいえ)悪神扱いの猿神の方を、それも地元とは直接関係の無い残り二匹まで算入して盛大に祀り上げるというのは、どうにも腑に落ちない香りを残します。

大地主神社も社伝・由緒としてこの話を明示していないのも気にかかります。

“しゅけん” という名に “修験道” との関わりを見る向き、”酒見氏” という名跡に探る向きなど様々にありますが、どれも判然としないのです。

翻って考えれば「三猿」は日光東照宮の彫り物でも知られるように、中国から “庚申信仰” とともに伝播された「智慧の神使」でもあったはずなのですが・・。

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とは言え「青柏祭」が千年にも届く神厳かつ盛大な祭として存在し続けているのは厳然たる事実ですし、その創始として今回お送りしたお話がしっかり根付いているのも事実なのです。

民間伝承には そうした不可解な側面が含まれる場合も少なくなく、だからこそそこに謎の解明を求めてゆく楽しみがあるのでしょう。 真実が明確になるかはともかく、過ぎ去った時の中にあれこれと想いを馳せることこそ歴史のロマンなのです。

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最後にこれらとは全く別の話ですが、「青柏祭」の執行「七尾 大地主神社 (おおとこぬしじんじゃ)」の宮司 大森重宜さんは、1984年ロサンゼルスオリンピック 400m障害、4x400mリレーの日本代表として出場・活躍した経歴をもつ「世界一 足の速い神主」として知られる方です。 ”しゅけん” の足に似たのですかね・・w

 

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