行き急ぐとも生き急ぐなかれ 蓮生逸話 − 岡山県

コロナウイルスの蔓延が中々に治まりません。 思えば昨年の今頃 巷に新型コロナウイルス流行の報が流れ国内でも初の感染者が確認されました。 正体の分からない感染症に社会は安定を失い、直接の感染被害はもとより これに関連した経済的・精神的な被害も未曾有の事態に陥り、それは現在も引き続いています。

感染が拡大した3月以降 各地で予定されていたイベント行事も次々と中止を余儀なくされ、イナバナ.コムでも掲載していた多くの記事の修正に至ったことを思い出します。

先日 発出された緊急事態宣言が功を奏すれば良いのですが、今のところ先行きは不透明と言わざるを得ません。 ワクチンの普及で全てが治まる訳ではないと思いますが、ともかくも収束への道筋へと転換してくれることを願うばかりです。

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丁度 (2019年)3月に投稿予約していたにもかかわらず、掲載直前(2日前) に中止が判明し慌てて修正文を追加した記事のひとつに 「春迎える吉備国の雛祭 そして輿入れ道中」 がありました。

その中で少し触れた旧吉備国の一国 “美作”、今日はこの美作に隣接する津山市から民話伝承とともに、これに登場するひとりの僧についてお送りしたいと思います。

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遥か昔 吉備国(現在の岡山県及びその周囲)が 同じく古代朝鮮半島の百済国と大きな関わりを持ち、ここに強大な勢力圏を築いていたことは歴史的にも確実視されています。

当時、未だ青銅器中心だった倭国(日本)において製鉄技術を持ち、文化的にも最先端を標榜していた吉備国でしたが、あまりの隆盛に危機感を抱いたヤマト王権から圧力を受け、やがて備前・備中・備後に分割され さらに備前国から美作国を分離させられました。
(この辺りの経緯が後の “温羅伝説” ひいては “桃太郎伝承” に関連付けられているようです)

勢力を削がれた吉備国でしたが、文化的な進取の気風、生活上の堅実かつ せっかちとも言えるほどの行動力は、後の時代にも吉備気質として受け継がれました。

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おそらくは平安の世が終わり新しき武家の時代となった頃でしょう。
美作の国府 津山のさらに奥地の “横野” という山里であった徒然なお話・・

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右に天狗寺山 左に入道山を見上げた横野の村はずれ

そろそろお天道さんもお隠れなさる
今日の仕事も終えようかと思うとった ひとりのお百姓さん

ふと 童どもの歌が聞こえてくるわ

坊主ぼっくり 山の芋
山ん中でくそひって
天神様に叱られる・・

何ぞと思うて その方に目をやると
囃したてる童どもの先を ひとりの僧が山奥目指してのっしのし歩いてゆくではないか

菅の笠に袈裟をまとい ずいぶんと大きな逗子を背負うて
はて ここらへんではついぞ見たことのない大きな坊さんじゃのう

けど この先は何も無い山ん中 樵(きこり) でさえ日が暮れにはさっさと出てきおる

「おおい! 坊さま こんな日が暮れにどこ行きなさる!」

お百姓さん 大きな声で呼びかけたと

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ところが坊さん 聞こえぬのか 知らぬふりなのか 応えもせねば歩みも止めん

人のえぇお百姓さん 畦道にまで出て もう一度声をかけたそうな

「おおぃ! こん先ぁ樵道しか無ぇ山ん中じゃで もうすぐにお天道もお隠れになるで お止めんなせえ!」

すると坊さん

「何? 行き止まりであると? されば ここはどこの村じゃな?」ようよう応えた

「こかぁ横野ちゅう村だで」

そこでようやく歩を止めた坊さん

「さようか して誕生寺はここからまだ遠ぉござるかの? 身共は今朝方 早うに岡山を発って来たのじゃが・・」

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これを聞いたお百姓さん 呆れたもんだで

何せ誕生寺と言えば横野はおろか 津山より五里も手前の久米のお寺ではないか

坊さん せっせかせっせか 知らぬ間に通り越して来たようじゃ

これを聞いた坊さん致し方なし 来た道筋をまたのっしのし戻って行ったそうな

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ん? どこにオチがあるのか微妙なお話ですが、さように吉備の人の気性と行動力を表しているのだそうです。

因みに このお話で出てくる地名、横野はもとより天狗寺山、入道山、そして久米の誕生寺とも全て現在に至って実在しています。

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そして登場のお坊さん、こちらも実在の方で 名を蓮生と号し もとは武人、それも平氏方の武将 熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)でありました。

昨年9月にお送りした記事 「隠れ里の氷水は時に流れて何を伝える」 でも触れましたが、国を二分した源平の戦において源氏方に与した平氏も少なくなく *、平氏に仕えていた直実も結果的に源氏方へと並ぶこととなりました。 (* その逆もあり)

治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦に傾れ込んでゆく抗争の中で、直実も意気高く勇猛を奮いましたが、その彼を変えたのは 俗に言う “鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)” で知られた “一ノ谷の戦い” だったと伝えられます。

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奇策・奇襲を巧みに操る源義経の配下となった熊谷直実、騎馬のままに断崖を駆け下りる “逆落し” 作戦にも実子 直家 らとともに参戦、開戦一番を駆け抜け敵の陣へと攻め込みます。

崩壊する平家の陣、混乱の最中、傷を受けながらも高き首級を狙う直実は、波打ち際を逃げる一騎の将らしき姿を見留め これを討ち取らんと馬を走らせました。

追撃を振り払わんと逃げる騎乗の武者に とうとう追いついた直実は、ついにはこれを馬から組み落とし砂上へとねじ伏せ、その首突き抜こうとしますが、その時 直実が見たものは・・

神戸市須磨区 熊谷直実公騎馬 像

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まだ元服も間もない、己が子 直家と変わらぬであろう十五・六の少年の顔であったのです。

これにためらい 打ち上げた刀を震わせながらも「我、武蔵国の武人、熊谷次郎直実である!」と名乗ると・・

「我 名乗らずとも この首取って人に問へ! 如何なる者も我を知ろう!」と気丈夫に返します。

その幼さと それに似合わぬ気高さに一瞬このまま逃がしてしまおうかと考えた直実でしたが、時既に遅く 仲間の手勢が後を追ってやって来る音に気づきました。

どの道この者は助からぬ・・

「同じことならば、この直実が手に掛け申し 後のご孝養を奉らん!」と叫び、一閃その首を穿いたのでした。

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戦いが終わり 実検を施すと、若武者の鎧の下から一管の笛が見つかります。

笛の名は「小枝 (さえだ) 」 この者こそ平清盛の弟 経盛の末子、平敦盛 であったのです。
齢十七歳、笛の名手であったと伝わります。

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このことに深く心を痛めた直実は、大戦の後 源氏の御家人として認められるも、深い胸の傷は癒えず、ついには家内の紛争をも打ち捨てて出家を探る身となりました。

浄土宗の開祖 法然上人に言を求め「ただ念仏を申せば往生するなり 罪の軽重なし」と諭され号泣の後、法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)の法名を頂いて仏道を歩む身となったのです。

お家のため、立身出世のためとはいえ、功名を欲し武功を漁って数多の命を屠り、あまつさえ己が子に違わぬ若き命を奪った 己の業に打ちひしがれていた直実の心は、ここにようやく救われ新たな道が開けたのでした。

一介の僧となった直実(蓮生)は多くの寺院建立に関わり、法然 生誕の地でもある ここ岡山久米の地の「久米 誕生寺」の開基にも尽くしたと伝えられています。

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熊谷直実=蓮生坊 は 誕生寺開基のために一時期 住んでいたのであって、元々はその名のとおり熊谷(埼玉県)の人であって生粋の岡山人ではないので、岡山気質とは言い難いのですが、信心智慧に身を捧げ かつ行動力も兼ね備えている様が、当地の民話に語られる因となったのでしょうか。

ともあれ、足はせわしくとも人生は得心のゆく、生き急がぬ人となった男のお話でした。

最後に、直実が出家を果たした時に これを伝え聞いた都の人々が歌ったといわれる歌を残しておきましょう。

「熊谷が うって変わって蓮生房 変われば変わる ものにこそあれ」

過去の故事・伝承記事一覧

 

 

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