夢は現実 現実は夢 夢物語から学ぶもの(後)- 大分県

「夢」という言葉を使うとき二つの意味がありますね。
一つは普段 就寝中に見る夢、もう一つは将来的に望む状態や成果に想いを馳せている心情を表します。 どちらにせよ共通しているのは確定的なものはでなく、現実のものではないということです。

希望としての “夢” は基本的に望んでみるものですが、寝ている間に見る “夢” は(多くの場合)見ようと思って見れるものではありません。

しかし、心理学的に言うと寝て見る “夢” も、覚醒時の記憶の断片と普段意識に昇らない深層意識にある欲求やその裏返しが 相互に作用して見るものだと言われています。

不確定だからこそ そこに人は何かしらの願いや望みを託し、時に逃避的なほどに夢の世界に入れ込みながらも 現実の世界から解放されることはなく、 されど何らの夢なくして向上や潤いに溢れた現実の人生も成り立ちません。

かくの如く 人と夢の関係は、現実と非現実、確定と不確定、欲求と結果の間を複雑に、そして不思議に絡み合いながら存在しているのです。

 

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「邯鄲の枕」

時 中国趙代の頃 首都邯鄲の外れ 一軒の宿屋で二人の出会いがあった
一人は老いたる道士 “呂翁” 一人は大志を抱き邯鄲を目指す地方出身の若者 “盧生”

ふとした事で親しく雑談を交わした二人
やがて呂翁は盧生になぜ邯鄲を目指すのかと問う

盧生 今の畑仕事のみの生活には発展も無ければ栄達も無くつまらないもの と

呂翁 身体 病無く食うにも困らずいて何故につまらないと思うのか と

盧生 男子に生まれたならば 世に出て功績を成し栄華を目指すことこそ本懐 と

呂翁 「なれば今 宿の飯が仕上がるまで暫し休まれると良い 私が持つこの枕を貸すゆえ横になりなさい 良い夢を見ることが出来よう」と陶磁の枕を与えた

 

盧生は その後 縁をもって良家の娘と夫婦となり それを契機に暮らしは富みはじめ また進士に服したことで公務の身となった

才覚を表したことで重用され高位の身分となり やがて地方の知事職を担う

さらに中央に招聘され王の近くで辣腕を奮い 国政に関わる重臣に至る

 

ところが 好事魔多しの言葉の如く 栄達すればそれを妬み足を取ろうとする者あり

影で謀られ讒言され ついに失脚しその栄華の大半を失い没落の徒となった

 

しかし 時の神は見捨てなかったのか数年の後 冤罪であったことが明るみとなる
王は己の不見を侘び 復官を施した後 前にも増して盧生に高位を与え重用した

王の意に応え真摯に勤め上げた盧生であったが いつしか忍び寄る老いに職を休しやがて病床の身となった

されど その時盧生には既に五人の自立した子息があり 多数の孫にも恵まれていた

王に気遣われ 家族に見守られ 間もなく終える己が人生を振り返り 万感の想いに浸りながら意識も薄れゆく中 ふと聞こえてきた声

「お食事の用意が出来ました・・」

気がつくと そこは道士 呂翁と話していた宿屋の一席 借りた枕で寝ていた己が身であった 五十年余と思われた時の流れも 飯もようやく炊きあがろうかというわずかの夢であった

呂翁は静かに微笑んでいる

人生の栄枯盛衰 一抹の夢に等しきもの

悟った盧生は呂翁に重ねて礼を述べ 故郷に戻り剛毅朴訥の道を歩んだという

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※ 詳しい内容の訳文が「中国故事街」様 に掲載されています。 こちらから[一炊の夢] よろしければご覧ください。

 

若い人が己が人生に大志を抱くことは決して悪いことではなく、むしろ様々な夢を描いて大いに躍進して頂きたいものです。 只、その世代の頃は得てして夢に溺れがちで一方方向の考え方しか出来ないことが少なくありません。

無謀で思慮不足な “夢” を “夢” でもってたしなめた夢物語の重典ですが、似た骨子のお話に近代 芥川龍之介作「杜子春 (とししゅん)」がよく知られていますね。

これも中国の伝奇小説「杜子春」に母体を借りたものですが、主人公の放蕩かつ苛烈な運命と最後に訪れるドラマティックな展開が胸を打ちます。

「杜子春」 青空文庫 / Googleブックス で無料でお読みになれます。

 

前編でご案内した「猪作の夢」は 大分県杵築の民話でしたが、これに似たモチーフの民話に島根県出雲に遺る「高田六左衛の夢」があります。

こちらは インターネット上に動画として見受けられるので、ご存知ない方はこちらからどうぞ。

「高田六左衛の夢」 動画

 

今 当然のように目にし体験している事が本当に “現実” なのか、それとも “夢” なのか・・ それとも “現実” と “夢” の認識定義は元々 不明確なものなのか・・ 「実に見えて虚、虚に見えて実」霞のごとく不安定、どんでん返しのごとく転変をあらわにするところが夢の不思議なところであり、また面白いところなのですが、現実の世界ではこうも言っていられません。

多くの夢物語の結末で言い得て諭すところは、”現実” “何気ない普段” の大切さですが、それは単に平凡な日々に感謝せよという事のみに留まらないのではないのでしょうか。

ついぞ 忘れがち、見落としがちな日々の幸せを改めて知るには、それを見極めるための “目” が必要です。

耐え難い悲しみや苦境に陥って初めて “何気ない普段” の有り難みを再認識する、という話は往々にして有りますが、苦しみの最中は正に悪夢の世界に放り込まれたようなもの、向こう側にあって ようやく見極める “目” が開眼したと言えるかもしれません。

つまり、そうならないためには何よりも日々の “意識” を持ち続けることが大事なのでしょう。

「大事なものは全部目に見えないと思っているの。
目に見えないことが一番大事なことだと思っているの」

「100万回生きたねこ」の作者 佐野洋子さんが遺された この言葉は実際の “肉眼” ではなく、大切な事を知ろうとする “心の目” のことを言っているのです。

 

「私たちは夢と同じようなもので出来ている」と言ったのはシェイクスピア
「露と落ち・・露と消えにし 夢のまた夢」と遺したのは豊臣秀吉

日々、洪水のように押し寄せる “現実” という名の “夢” の中で、”心の目” をしっかり凝らして今年も生きてゆきたいものですね。

 

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