冒頭から不穏な話題で恐縮ですが、世界で最も多く 人を死に至らしめる動物は “蚊” だそうです。マラリアやデング熱などの病原を媒介することで年間約50~70万人の人間が犠牲になっているのだとか・・
その被害の大半がアフリカ地域に集中していることから ある種、風土病と言えなくもないのですが、ほんの半世紀くらい前までは中南米、東南アジアなど温帯〜熱帯地域にかけて世界的にに見られる蚊から人への感染症でした。
日本でも昭和の中頃、衛生環境や治療方法が確立されるまでは他所ごとではなく、夏季を中心に少なからず見られた病気で、古くは平安時代、和名類聚抄において “瘧(えやみ・おこり)” の名で死に導く “鬼” とされていたり、枕草子で清少納言が蚊のことを “いと憎けれ” などと記しています。
生命を脅かす “蚊” の脅威に対して人々は古来より対抗の策を講じてきましたが、何せ相手は宙を自在に舞う小さな虫、それも二匹三匹と潰しても いつ果てるともない無限の数。
畢竟、身体の露出を減らす、長毛の房などで払う、居住空間の一定部分を布などで隔離する、そして 蚊の嫌いそうな草木を焚いて(蚊遣火・古くは松、杉、ヨモギなど)その煙で追い払うなどの、言わば 基本的には現代とそう変わらない方法をとってきたようです。
とは言え、草木を焚くのは極めて限定的な効果であり効果の時間も限られ、日々生きること、働き活動することが生活の大半となっていた一般庶民の暮らしにあって、それらの不効率な防衛策に時間を割いている余裕は中々有りませんでした。
除虫菊(和名:シロバナムシヨケギク)の成分に殺虫効果があることは17世紀頃から知られていたようです。 ヨーロッパの西南 アドリア海に面したダルマシアと呼ばれる地域で、白く清楚な花びらを並べるその菊に殺虫成分が含まれることが発見され、以来、積極的に栽培増産され、やがて各国に伝わることとなりました。
除虫菊の花の雌しべの付け根、まさに花の中心に多く含まれる「ピレトリン」に虫の神経作用を阻害する効果があったわけですが、これを乾燥の後、粉末状にして散布・もしくは焚べるという手法で、当初は蚊よりもむしろノミやダニ、ハエなどの駆除を目的にされることが多かったようです。(現在でもこのタイプの製品は有ります)
除虫菊のほぼ大半を外国からの輸入に頼っていた明治18年、サンフランシスコ出身の植物輸入商 H.E.アモアが 渡米経験もある思想家 福澤諭吉の仲介で、和歌山県有田市の上山英一郎を訪問しました。
富裕農家とは言え、当時の農民出身でありながらも学識に通じ立教・慶應の学堂にも学び、農業科学にも造詣の深かった上山は、福沢から目を掛けられており福沢家の園芸をも担っていたと伝わります。
日本の珍しい植物の種や苗を求めていたアモアの相談に、上山は日本産の竹やシュロ、菊などの苗を進呈し、その返礼として翌年 アモアは 当時貴重だった除虫菊(Insect Flower)の種子を送ったのだそうです。
アモアから受け取った除虫菊の種を、上山は まずは自分の農地で育てることから始め その研究に没頭したのだそうです。連作への対応性、土壌への適応性など試行錯誤を繰り返しながら生育環境を把握し、なおかつ対害虫効果の検証に力を注いだのです。
そして、除虫菊の持つ殺虫能力に将来性を確信した上山は、その育成地を地元から県内へ、県内から全国各地へと増やすべく(まさに)行脚とも呼べる旅を重ねたのだそうです。
見たこともない、そして収入に結びつくかも解らない新しい植物に、はじめの内は地元の農家仲間でも物議を醸したそうです。しかし、上山の情熱溢れる説得によって徐々に栽培が始められ、その輪はやがて広島をはじめとする全国へと広がっていったのでした。
原材料である除虫菊の生産に目処が立っても、商品そのものを発案しなければなりません。
当初はそれまでの殺虫製品に準じて粉末状のものを製造していましたが、もっと手軽に、いつ どのような場所でも効率よく使え 効果の高いものを作らなければ発展はない・・
そう感じていた上山が東京に出向いていた折、本郷に線香商を構える伊藤幹と出会い談話を交わす中で浮かび上がってきたのが、菊の殺虫成分を線香の製造過程で練り込み ”線香状の殺虫剤” を形成すること・・、 早速、郷里に戻り線香職人を雇い入れ、またも試行錯誤を繰り返し ついに明治23年完成、発売にこぎ着けたのが「金鳥香 / 金鳥-棒状蚊取り線香」だったのです。
「金鳥-棒状蚊取り線香」は想定していた効果を発揮し、手軽に使える ”蚊遣火” として多くの人の知るところとなりましたが問題も残っていました。
その構造上、使用可能な時間が40分程度と短く、また煙の量も少なかったため3本4本とまとめて焚かなければならなかったのです。
この問題を解決するには線香を物理的に長くする、太くする必要があったのですが、それも限度があり、どうしたものかと思案の中、上山の妻ユキが ある日庭の隅でトグロを巻く蛇をみて渦巻き状の線香にしてみたらどうかと提案、妙案だと悟った上山は早速その実現に向けて着手します。
渦巻き状に成形すればコンパクトな中に長さも太さも確保でき完璧な商品として成立する!しかし、妙案と思われたこの策も一筋縄で実現出来るものではなかったようです。
当初、渦巻き状に溝を彫った木型に柔らかい状態の線香を詰め それを抜き出す方法を用いてみたものの、抜き出しに手間が掛かり過ぎ大量生産に向かない事が判明、次いで社員の発案で棒状の芯に巻きつけて作る方法を試してみると、制作は容易に出来るものの今度は乾燥過程で問題が発覚、またユキ夫人の案で金網の上で乾燥させる方法に至り ついに製品化への目処が付き、明治35年 ようやく「渦巻型蚊取り線香」の発売に辿り着いたのです。
ユキ夫人による渦巻型蚊取り線香の発案から実に7年の歳月が流れていました。
事業が軌道に乗った 明治38年 上山は「日本除蟲菊貿易合資會社」を設立
日本国内はもとより海外に向けても積極的な拡販を進めてゆきます。
手軽に用いることが出来て効果の高い「渦巻型蚊取り線香」は、日を追うごとに全国の家庭から職場に至るまで普及を成し、蚊によるマラリア罹患を劇的に減少させたのでした。
これは 国内に留まらず、世界の感染抑制にも相当の効果を示したものと言えるでしょう。
明治43年 には「金鳥」の商標を取得「鶏口となるも牛後となるなかれ」の心情からだったと言われています。
昭和10年には社名を「大日本除虫菊株式会社」に変更、昭和17年には現在の本社が建つ大阪市西区土佐堀に会社を移転、以降「キンチョー」の名で世界に知れ、創業135年を数えるリーディングカンパニーへと続いたのです。
日本の蚊取り線香事業は決して上山英一郎氏 一人の功績ではありませんが、彼が残した業績と世の害虫事情に与えた恩恵は計り知れないものでした。
蚊取り線香が人と害虫の一千年に及ぶ戦いへの決定打となったわけではありませんが、人の衛生的な生活に大きな足跡を残したのは事実でしょう。
しかし、この世界には まだまだ多くの衛生問題が残っています。
研究100年にも関わらず、マラリアに対する決定的なワクチンが出来上がらないこともそれを示しています。 アフリカをはじめとした発展途上国の多くが衛生改善の中々進まない現状も打破せねばなりません。
現在、世界を席巻するコロナウイルス感染症も含め、人類は、明日を望む限り 問題に突き当たる度、勇気と努力をもってそれらを乗り越えてゆかねばならないのです。
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