春迎える吉備国の雛祭 そして輿入れ道中 – 岡山県

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イベント関連記事につき2月26日掲載の「コロナウイルス関連問題に寄せて」及び3月2日掲載の「当面のリリースに関して・・コロナウイルス関連」もご一読頂けますと幸いです。

 

現在、国内の区分は都道府県で区切られています。ご存知のように明治以前は幕藩体制による「藩」が事実上の行政・地域区分となっていたわけですが、当イナバナ.コムの記事でもよく出てくる○○国(最近の記事では 下野国 など)は幕藩体制などよりも もっと以前の律令制時代に規定されたものになります。
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およそ大化の改新の後、7世紀後半に対外的な国家の防衛力増強のために それまで土豪が各個に治めていた地域を中央集権的な管制が利くように整備し直したのが始まりで、それは後世 明治時代の初期にいたるまで地域区分の概念のひとつとして定着し続けました。
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因みに現在でも各地に残る「府中」という地名は各律令国の行政機関「国衙(こくが)」を置いていた場所の名残ですね。
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「吉備(キビ)」は、倭(ヤマト)や出雲(イズモ)と肩を並べる強大な勢力圏でした。変遷を経て後の律令制で備前、備中、備後、そして美作へと分割されながらも、ヤマト政権を立脚する重要な衛星圏でもあったのです。

 

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明治時代、備前と備中、美作を併せて一県に制定され それまでの岡山藩の名を継ぐかたちで、現在の岡山県となりました。
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その岡山県のやや北部、北房の中津井は江戸時代 備中と美作を繋ぐ街道の中継ぎの町としてにぎわい、倉敷で仕入れた物資を内陸に伝える重要な役割りを果たしました。
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所轄であった備中松山藩主 石川 総慶(いしかわ ふさよし)が伊勢亀山藩に移封となった折もこの地は亀山藩の飛地所領として残り、その時の代官所が今も「なかつい陣屋」として受け継がれ、古風な造りのリゾート型宿泊施設として中津井の顔となっています。

 

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この中津井の郷で毎年3月の最終土日曜日に開かれるのが「中津井雛の文化まつり 輿入れ道中」
この日 陣屋を中心とした周辺民家には、明治から大正時代にかけて作られた伝統色濃い内裏雛が飾られます。その数は約40軒といわれ、雛飾りの他にもちぎり絵や俳句なども披露されるとのことで、この催しが “文化まつり” と題される所以なのかもしれません。
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百年からの歴史を刻む内裏雛の数々は こういった民芸品に興味の深い方のみならず、行楽を旨とされて訪れた方にも 新しい発見をもたらしてくれるのではないでしょうか。

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そして、このまつりのメインイベントとも言えるのが、往時の衣装に身を包んで古式ゆかしく行なわれる「輿入れ道中」ですね。
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その名のとおり 角隠しに色打掛を纏った花嫁さんが、時に歩き時に馬上に揺られながら多くの参列者とともに街道を練り歩く、輿入れ つまりは “嫁入り行事” を再現した華やかでおめでたい ハレの行列です。
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昨年暮れにご紹介した「ハレの日 人生の門出と嫁入り舟行事 – 茨城県」 が水郷の地を舞台とした水運型と例えるならば、この中津井の輿入れ道中は内陸ならではの行列型というところでしょうかねw。
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その光景は 江戸時代の末期に中津井の庄屋宅から倉敷市の塩田王「野崎」の家への輿入れを再現したものと言われ、長持などを持った多くの侍者を従えた嫁入りの様子は、庄屋とはいえ その財力や動員力など当時の町がいかに活気豊かな状態であったかを物語っているようです。
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3月の末ということで、どちらかと言うと旧暦の雛祭りに近い日程で行なわれる「中津井雛の文化まつり 輿入れ道中」
お水取り(奈良 東大寺)も済み いよいよ本格的に春到来の季節、「吉備国」にめでたい春を探しに出掛けられるのも良いかもしれませんね。

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「中津井雛の文化まつり 輿入れ道中」真庭観光WEB

 

*3月3日 更新

 

 

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