リュウキュウイモの偉人と亀の報恩譚(後)- 沖縄県

さて 前回、海亀の報恩によって無事 故郷 琉球の地に帰り着くことが出来た儀間真常、大陸での勤勉も認められ晴れて政府の要職を担うようになったとされていますが・・
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史実における儀間真常は嘉靖36年(1557年)(嘉靖・かせい は明の元号)首里 真和志の垣花村に、王府役人であった父 儀間真命の三男として生まれました。
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士族の家系であったことから生計にそれほど憂いは無かったようですが、幼い時から士族としての薫陶を受け、それに応えるかのように利発で努力家の人であり 早くも14の歳にして王府首里城に士官しています。
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37歳で父の跡を継ぎ儀間村の地頭(代表管理者)となり本格的に政務に携わってゆきますが、真常は若年のうちからひとつの思いを抱いていたようで、それは琉球という国がその地理的・気候的要因から台風の被害を受けやすく、また 度々に渡って干ばつにも悩まされ 人民の食生活が極めて不安定であったことに対する改善への夢であったのです。

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当時の琉球国は建国以来170年程の歴史を重ねていましたが、事実上、大陸 明朝の冊封(さっぽう / 支配影響下にあること)を受けており 交易なども盛んでしたが、国土の整備はまだまだ未成熟であり、一般民衆の生活は お世辞にも豊かとは言えませんでした。
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39歳にして王府の使者として大陸に渡り進んだ文化や産業を学び帰ってきた真常にとってそれは何としても改善せねばならない自らの課題でもあったのです。
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そんな中、真常は とある噂を耳にします。野国村の総管(交易船の監督職)である与那覇 松(よなは まつ)という人物が、大陸より蕃薯(ばんしょ / 後のサツマイモ)の苗を持ち帰り栽培に成功したというのです。
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蕃薯 はその生育が天候に左右されにくく荒れた土地でもよく育ち栄養価も高いことから、寒村の現状を見てきた与那覇 松もこれを取り入れてみたのでしょう。
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すぐさま 真常は与那覇 松の所へおもむき蕃薯の様子を見せてもらいます。
これは琉球の民を救う一品となる! そう直感した真常は与那覇 松と相談の上、栽培方法を学び、さらに より実りの良い栽培を模索します。
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ほどなくして より根付けの良い栽培法を確立すると政務の一環として全国的に蕃薯の栽培を奨励、十数年後には琉球全土に蕃薯の作付けは普及し民衆は飢餓に喘ぐことはなくなったと言われています。

 

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ところが、蕃薯栽培の奨励を始めた数年後(1609年)のこと、琉球は大きな受難の時を迎えます。
薩摩藩の侵攻により王朝は抑えられ 琉球国は薩摩藩の従属国となり、同時に明国(後には清国)の冊封も受け続けていたため、同時に二つの国の支配下に置かれることとなってしまったのです。
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当時の琉球国王 尚寧王(しょうねいおう)は 国を離され本土へと連行、軟禁生活を強いられることとなりますが、この時 真常も王の随伴員として本土に同行、二年余りを過ごした後 帰国の途につきました。
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” 転んでもただでは起きない ” とでも言うべきか、真常はこの時も本土から木綿の種を持ち帰りました。
泉崎村に住む薩摩出身の女性二人が紡績の技術をもっていると聞くと これを訪ねて学び、これを蕃薯の時と同じく琉球国内に普及させました。木綿織工の技術はそれまで貢納布(こうのうふ / 王宮に収める織物)として織られていた「琉球絣 / りゅうきゅうがすり」にも影響を与えつつ、琉球国の地場産業として発展してゆきます。
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さらに 1623年 には領地 儀間村から二人の若者を大陸に派遣、サトウキビを原料とする製糖技術を学ばせます。サトウキビはそれまでも栽培されていましたが 糖汁を食事に利用するにとどまっており、ここから精製された黒糖は品質も良い上に利用範囲も広く、鹿児島を通して全国へ広まってゆき、琉球の特産品として知られることとなりました。
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野国総管 与那覇 松 が持ち帰り真常が広めた蕃薯も 時に連れ薩摩を通して全国的に”サツマイモ” として今日に知られることとなりますが、元を正せば「リュウキュウイモ」だったのですね。
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常に民の生活を想い 国を豊かにすることに生涯を捧げてきた真常はその幾多の功績によって王府での官位も黄冠から紫冠に叙せられましたが、真常にとって国の基盤が整い 民が少しでも潤いを得たことの方が嬉しかったのかもしれません。

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琉球は王朝が築かれる以前は、グスク(城)と呼ばれる豪族割拠の時代を経て、島を北から三区分に分けて王権が並立する「三山時代」を歩みました。
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三山のうちの中山王が1429年に三山統一を果たし、以降、明治時代に「沖縄県」として日本の行政下に置かれるまで 26代 473年間 の王朝を築きますが、その道程は決して平坦なものではありませんでした。
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大陸、明国や清国の制約下にあり常に貢物を献上しなければならない立場にあり、後世には日本・薩摩藩の支配をも同時に受けたことでその重荷は倍旧のものとなってしまいました。
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知られるように大戦においては国内唯一の地上戦地となり生命・資産とも壊滅的な被害を受け、戦後 27年間 アメリカによる統治下となりました。昭和47年 ようやくのこと日本への復帰を果たし 平和が訪れた現代にあっても米軍基地の問題は長く尾を引いています。

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その「琉球」も古代~中世においては周辺の島々を圧していた歴史もあるのですから、これはもう歴史の中の ” 人が背負った業と苦しみ ” と言うべきかもしれませんが、波乱万丈の歴史を刻みながらも 琉球 / 沖縄の人々は美しい南洋の海で独自の文化を築き上げ、それを今日に至るまで大切に伝え続けてきています。
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亀は万年生きると言われていますが、真常を助けた海亀が琉球 そして沖縄の歴史を生きて見つめていたならば、悠久の生命の中でどのように思っていたのでしょう・・

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