改革の本位とは何か 上杉鷹山 夢と相克の果てに(後) – 山形県

経済はそもそも その時代ごとに 基盤となる社会そのものの状況に大きく影響されるので、いつも同様の手法が通用するとは限らないのが難しいところですが、その本質的な目的は国民 / 領民の生活安定と、結果としての国家資本の健全化ということになるでしょうか。

上杉鷹山が目指したものは単に藩経済の立て直しではなく、正に藩のあり方そのものの健全化だったのでしょうが、ぬるま湯の如き権益に固執していた人々からは破壊者以外の何者でもなかったようです。

 
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江戸藩邸から国元へ送っていた指図書は鷹山が国入りするまで ことごとく放置されていました。 国元の重臣たちは鷹山 / 新しい藩主が国入りすることさえ疎んじていたようで、その迎え入れもお粗末なものだったようです。

家臣総意のものだとして鷹山の出す改革案にことごとく反対する重臣たち、しかし、鷹山はその度に実際に家臣全員を集めて真意を問うと同時に階級の差 問わず意見を募りました。
鷹山は情熱的に改革に取り組み それを指示しましたが、決してワンマンにゴリ押しと言うわけではなく常に人心の把握と全体としてのバランスに配慮していたようです。

家内家臣の上下のみならず士農工商の身分差まで超えて人と接し、藩主の責を果たそうとする鷹山の生き様は 時が経つとともにその理解者・協力者を集め、開拓への士分投入も次第に人員を増し多い時には数百人の侍とその家族が畑仕事や治水事業に汗を流したといいます。

 
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しかしある日、その畑が荒らされました。鷹山が耕していた城地の畑も同様に無残な姿となり果てました。 ようやく出始めた改革の芽を 夜陰に紛れて荒らしにくる卑劣な行為は、鷹山やその理解者たちの気を削ぐどころか結束を高める一因とさえなりましたが、反面 それは反対者たちの怒りがピークに達していたことも表しました。

内紛の予兆さえ感じられていた家内、ついに安永2年(1773年)には改革反対派による強訴が実行されます。後に”七家騒動” と呼ばれるこの事件は旧来からの重臣7人による御家騒動で、ある朝登城した鷹山に対し重臣を含む藩の要職7名が詰め寄り、45ヶ条に及ぶ訴状を上げ その場でそれに目を通すよう鷹山に強要、即刻 改革の中止を求めたのです。

訴えを汲んだ鷹山は訴状を読み上げましたが結果的に議論はもの別れ、感情的な紛糾を避けるため退席しようとした鷹山の着物の裾を掴んで揉み合いになる緊迫した状況にまで至りました。

この事件に激怒したのが他ならぬ先代藩主の重定、いかな反論ありとはいえ主君に強訴した上に手までかけるとは何事と、鷹山を全面的に支持したのでした。

事件の4日後、この騒動に対して処断がなされました。

奉行及び侍頭の5名は蟄居閉門、江戸家老の須田満主・侍頭の芋川延親の2名が切腹、そして彼らを影で教唆していたといわれる元 米沢藩医の藁科立沢が斬首となり、この強訴は退けられ事件は幕を引いたのです。

 
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改革反対派の多くがこの時排除される事となったため、多少なりとも改革は進めやすくなりましたが、しかし 多数の重臣を失ったことで、その後しばらくの間 藩そのものの運営に支障をきたす事態をも招いたようです。

再びになりますが、鷹山は人心の把握と 全体としてのバランスに心砕く人でした。
身分の差や権力の大小の中に人の重きを置かず 平等に接しましたし、この改革においても粘り強く進めはしましたが、頭ごなしに強要するようなことはありませんでした。

事実、倹約令を出した後でもそれに従わないものは多くいましたが、それを理由に解雇したりすることはありませんでした。あくまで地道に協力者を増やすことを試み、結果、年を追うごとに協調の輪が広がり やがて藩の財政は好転に向かったのです。

”七家騒動” で蟄居させていた臣下も事件から2年後に赦され、切腹に至った須田満主・芋川の両家には士分への復帰再興を認められています。
これは上杉家の伝統に配慮すると同時に、否決罪人になったとは言え彼らの意見にさえも一理あるものとして鷹山が認めていたからではないでしょうか・・

 


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天明5年(1785年)鷹山は前藩主・重定の嫡子、上杉治広に家督を譲り35歳の若さで隠居の身へと移ります。 これは幕府からの普請(臨時の上納金や労働力要請)回避の狙いもありましたが、同時に嗣子(しし、跡継ぎ)は本来の上杉本家の筋に戻すべきであるとの鷹山自身の配慮でもありました。

”大きな改革は一代で成せるものではない” 鷹山の言葉です。
単身、若年養子の身で米沢に入国、活気ある地に変えようと奮闘してきた鷹山でしたが、未だ反対勢力の声も根強く またその声をも聞き届けながらの改革だっただけに、その進捗は思うに任せない日々が続きました。
重定 そして家督を移譲した治広からの要請もあって、鷹山は隠居後も後見として改革事業に携わりました。

藩の借財およそ16万両が完済され さらに5千両に備蓄が達成されたのは文政5年(1822年)鷹山がこの世を去った翌年のことだったと言います。

天明5年の家督移譲の際、新藩主となる治広に宛てた「伝国の辞」

一、国は先祖から子孫へ伝えられるものであり、領主の私物ではない。

一、民は国に属しているものであり、領主の私物ではない。

一、国は民の為に有り 行動するのが領主であり、領主の為に国が有り 民が動くのではない。

以上、この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。

 
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時代が進んで 世の中の仕組み 相互関係が複雑になるに連れ、先行きを見通すのが難しくなり、どうしても目先の利益に振り回されてしまうのは、ある意味 この社会の宿命なのかも知れませんが、どのような時でもそこに関わる根本は”人間” そのものです。

デジタリックな統計データや その活用は膨大に膨れ上がった社会の解析には有効ですが、そこに”人間の本質” への把握と配慮が折り込まれていないかぎり、真に実りある結果は得られないように思えます。

保守的な思想にのみ問題がある訳ではありません。また 革新的な思想がいつも正しい訳でもありません。大切なのは様々な考えから より時節に最適な選択肢を勇気をもって選ぶこと、そして その根底には”人の心” が通っていることではないでしょうか・・

 
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注:「鷹山」の名は隠居後51歳の時 剃髪した後 号した諱(名)で治世中は上杉治憲(うえすぎ はるのり)でしたが、記事では一般に著名である「鷹山」を使用しています。
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